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武田信義ゆかりの地・韮崎を歩く 武田八幡宮から願成寺へ

JR中央本線の韮崎駅からバスに乗り、10分程のバス停「武田八幡入口」で下車し5分程歩くと武田八幡宮にたどりつく。

まっすぐに伸びる参道は山へと向かう上り坂になっており、途中にあるニノ鳥居には信玄の筆とされる「武田八幡宮」の額が掛かっている。武田八幡宮のパンフレットでは、この額の「武」の字は1画多いことや、ここに信玄の“刀を抜かない”決意を表しているということが紹介されている。

山を背に建つ武田八幡宮は、周囲を木々に囲まれ、石鳥居、総門、舞殿、拝殿、本殿へと、奥に行くほどに高い位置になっていく配置に独特な雰囲気が感じられる。

822年に嵯峨天皇の勅命により、武田武大神(日本武尊の子)を祀ったことに由緒があるとされる武田八幡宮は、甲斐武田氏の氏神であり、武田信玄が再建した本殿は国の重要文化財になっている。その奥には鎮西八郎源為朝を祀った為朝神社もある。

武田八幡宮は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・武田信義が13歳のときに武田八幡宮で元服し、武田太郎信義を名乗った場所だ。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する武田信義は、源義光(新羅三郎義光)のひ孫で、元の名は源信義(幼名は龍光丸)。

近くには武田信義が居を構えたとされる場所があるので、武田氏ゆかりの里をめぐる際にはぜひ訪れてみたい。民家やのどかな田園風景の中、道沿いの「武田信義館跡入口」の看板の示す道を歩いていくと「市指定文化財 武田信義館跡」とあり、韮崎市教育委員会による解説の看板が建っている。

看板には、平家討滅の折に甲斐源氏一族を率いて武功をたて駿河守護となるも、のちに源頼朝に排斥され、1186年に病没したことが記されており、館跡には土塁の一部が残るとともに、周辺に、お屋敷・お旗部屋・神酒部屋・お庭・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名が残ることが紹介されている。

この近くには、武田信義の墓所である鳳凰山願成寺もある。鳳凰山の山号額は、信義が後白河法皇に奏請し下賜されたものとされ、帰化僧馗安の揮毫と伝えられる。

氏神から館跡、墓所まで、武田信義ゆかりの場所が程近い場所に点在する「武田の里 にらさき」は、素朴ながらも甲斐武田氏のルーツに触れることができるエリア。

戦国時代の躑躅ヶ崎館跡に建つ甲府の武田神社よりも前、平安時代から鎌倉時代にさかのぼって甲斐武田氏のはじまりを知るとともに、のんびりとした歴史散歩を楽しむことができそうだ。



武田八幡宮ホームページ
https://takedahachimanguu.com/

(一社)韮崎市観光協会ホームページ
https://www.nirasaki-kankou.jp/kankou_spot/jinjya_bukkaku_rekishi/meisho_kyuseki/6561.html

鳳凰山願成寺ホームページ
http://ganjoji.jp/

武田八幡宮本殿

武田信義館跡

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  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
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