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さて、朝の8時に江戸の町を出ると保土ヶ谷の宿に着くのは、大体、午後3時頃になります。適当な旅篭屋を選び入るのですが、旅篭屋ではお客さんが到着すると、たらいに水を入れた物でわらじを脱いだ足を洗ってくれます。
いくら健脚でも、未舗装路では汚れますし疲れてもいますから、これは粋な計らいでした。そして客間に通され、「やれやれ、まずは一服」という訳でお茶を入れてくれるのは現代と一緒です。
ちなみにタバコはポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来したのと一緒に日本に入ってきたと言われており、江戸時代には日本各地で栽培され、江戸の一般庶民にも広く普及していました。店の小僧さんが他の店に使いに出され、到着すると、その店の人は、まずは煙草盆を出すのが常識だったそうで、小僧さんもまずは「やれやれ」と一服してから用事を伝えたそうです。
江の島へいく時は煙草入れにキセルとタバコを入れ、火は火打ち石と火口(ほくち)を持って行き、火を付けたそうですが、懐炉のように石綿の中に炭火を入れて持っていく道具もあったようです。
さて、風呂に入り、夕食です。旅篭屋の夕食は一汁三菜が基本で大根の味噌汁に平台として焼豆腐、焼き物として塩ブリやカレイの焼き魚、あとは揚げ豆腐や大根の煮物、山菜のおひたし等の鉢が付いたようです。
ご飯は白米です。江戸人の白米好きは大変なもので箱根を超えたら「仕方ない」のですが、箱根の手前まででは「ご飯は白米」というのが常識でした。
また、暗くなったら早めに寝るしかないので午後8時前には就寝です。
これは、およそ18kmですので4時間ほど。藤沢は漁業が盛んで、特にシラスが沢山とれ「畳いわし」が名物ですので、お土産に買います。また、小腹がすいたらシラス飯など食べてから、いよいよ江の島エリアに入ります。
江戸時代には昼食を「午飯」と言いました。江の島エリアに入ると「サザエの壺焼き」「焼きはまぐり」などを屋台で売っていますので、ちょっと味見。それから、江島神社にある「江の島弁財天」にお詣りをし、岩屋という海食洞窟を見学します。
岩屋は弘法大師や日蓮上人も修行したという歴史のある洞窟で江の島が「詣でる場所」になった発祥の場所でもあります。こうして2時間ほど、江の島で過ごします。
江の島見物が終わったら、次は7km先にある鎌倉に向かいますが、午後3時頃になると鎌倉の手前にある旅籠屋をみつくろって入ります。
当時の旅篭屋には普通の旅篭屋と「飯盛り」と呼ばれる売春婦がいる旅篭屋の2種類があり、それぞれ好みで選びました。この日の泊りは宴会も兼ねていたので酒も御馳走も頼むのですが、鎌倉の手前には、「江の島から来た宴会目的の旅行客」をあてにした宴会旅篭屋が多数、あったのです。
鎌倉は、かの水戸黄門のモデルとして知られる徳川光圀が書いた「新編鎌倉志」により江戸の人達に知られるようになり、観光名所となっていたのですが、江の島に詣でてから立ち寄るのが当時の定番でした。
この日は駿河湾で取れた魚介類を中心とした御馳走を食べ酒を飲み、どんちゃん騒ぎです。とはいえ、夜は頼りない灯の行燈しかないので宴会も8時前には終了し、就寝です。ちなみに、当時、ロウソクは高価な贅沢品で特別なことが無い限り使うことはありませんでした。
川崎宿から出発すれば翌日の夕方前に江戸に戻れるので、これで江の島旅行は終了です。全行程、ざっと120kmほどですが、これを3泊4日かけて歩いて行っていた訳です。
現代人にこんな旅行をやらせたら、ほとんどの人が初日でギブアップか、少なくとも足に豆ができたり筋肉痛で歩けなくなったりしそうで、藤沢にたどり着ける人も僅かではないかと思います。
江戸時代の戯作本を読んでいると上野から王子に花見に行ったり、馬喰町の寿司屋に使いに行ったりする場面が登場します。もちろんすべて徒歩です。いやはや、江戸人の健脚ぶりには呆れかえるばかりです。ですが、他に方法が無い以上、そうするしかないのであり、私が呆れている方がおかしいのです。
何かを得れば何かを失うのが世の常であり、失った物の大きさに改めて驚いても始まりません。それよりも素直に「得られた物の大きさ」を喜ぶべきなのでしょう。でも、ちょっと凄いですよね。このような今と昔の違いを知ることも、また歴史を読む楽しさの1つと言えそうです。