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スパイMと日本共産党 特高警察の暗黒の歴史

※1928年 赤旗創刊号表紙(wikipediaより)
※1928年 赤旗創刊号表紙(wikipediaより)
松本清張氏の大著「昭和史発掘」の第3巻に「スパイMの謀略」という一章があります。内容は大正末期から昭和7年までの間、当時は非合法とされていた日本共産党の中に入り込んでいた「松村」という人物についての記事です。

松村は最初は熱心な活動家でしたが、何等かの理由により共産主義思想を見限り、当時、思想犯、政治犯などの「治安維持を脅かす存在を排除すること」を目的とした悪名高い「特高警察」のスパイとなり、当時の日本共産党を壊滅に追い込んだ人物です。

非合法活動ゆえに、秘密裡に活動していた当時の日本共産党のメンバーの動向は全て松村を通じて特高警察に筒抜けとなっており、少しづつ逮捕され、最終的には昭和7年に通称「熱海事件」と呼ばれる日本共産党メンバーの一斉検挙につながりました。

当時の日本共産党は壊滅させられ、スパイMこと松村は行方をくらまします。残されたのは「スパイMとは一体、誰だったのか?」という疑問でした。松本清張氏も相当に調査したようなのですが、残念ながらスパイMの人物特定には至りませんでした。ただ、本名は「飯塚盈延(みちのぶ)」という名前らしい、ということまでしか「昭和史発掘」には記されていません。

スパイMが行方をくらましてから太平洋戦争が始まり敗戦を迎え、現在の日本国憲法が施行され、日本共産党も合法化されると、本格的にスパイMの追跡に乗り出します。また、松本清張氏の記事を読んだ後進のジャーナリストの中にも「スパイM」の追跡を始める人達が現れました。そして、彼らの執念の調査により、ついにスパイMは人物特定され、その生き様の全てが世に出されます。

残念ながら松本清張氏は、その2年前に逝去されており、スパイMの正体について知ることは出来ませんでしたが、「昭和史発掘」を読まれた方の中には、スパイMが、その後、人物特定され、その生涯まで調査され発表されていることをご存じない方もいらっしゃることと思います。

そこで、スパイMと特高警察について述べてみたいと思います。

特高警察とは、どんな存在だったのか?

特高警察といえば、プロレタリア作家として、今でも有名な小林多喜二を拷問で殺したことで知られています。

そもそもは明治時代に明治天皇の暗殺を企てたとされる「大逆事件」(別名:幸徳事件)をきっかけに作られた秘密警察で主に共産主義者、無政府主義者を取り締まるのが目的でした。そして大正14年に成立した、これも悪名高き「治安維持法」を盾に昭和恐慌をきっかけに、高まりつつあった反体制運動を容赦なく検挙したのです。

治安維持法違反における刑罰は「死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」となっており、最高刑は死刑まであったのです。治安維持法の最も大きな問題点は簡単にいうと「将来、犯罪を犯す恐れが高い」というだけで検挙できる、と言う点にありました。つまり共産党に入党している人物は「入党しているということは共産主義者であり、将来、国家転覆を図る可能性がある」というだけで逮捕、処罰することが出来たのです。

こういった「おそれがある」だけで罪に問える法律を「予防法」と言いますが、治安維持法はまさに「予防法」だったのです。ですので、「あいつは将来、犯罪をしそうだ」というだけで捕まえて裁判にかけることが出来る訳です。現在の警察は「怖れがあるだけでは警察は手を出せない」という原則があります。それは治安維持法のように「怖れがあるだけで検挙できる」ようにしてしまうと乱用されかねないからです。

現在の日本では、通称「破防法」と呼ばれる「破壊活動防止法」「暴力団対策法」が予防法的な運用が可能な法律です。ですので「破壊活動防止法」の国会議論は熾烈を極めました。へたすると治安維持法の二の舞になってしまう可能性があったからです。

治安維持法の苦い経験から日本は「予防法」については非常に敏感で根強い反対があり、今後は「予防法」と考えられるものが国会に提出されることは、よほどの事が無い限り、ないでしょう。その治安維持法を根拠として次々と「将来、犯罪をしそうな連中」を取り締まったのが特高警察でした。

特高警察は「怖れがあるだけで検挙できる」のですから、自分達の気に入らないものは容赦なく検挙できた訳です。元々「国家体制を危うくする可能性のあるものを排除する」のが目的ですから、捕まえた人達は「国家的な危険人物」であるので「殺しても構わない存在」という認識ですので「取り調べ」と言う名目で平気でひどい拷問を行いました。

小林多喜二の場合も実際には逮捕して築地署に到着すると、素っ裸にして3人がかりで棒で殴打し死亡させた、とのことです。遺族には「取り調べ中に心不全で急死した」といって遺体が届けられたそうです。

しかし、遺体には殴打された後と見られる青あざが無数にありました。遺族は司法解剖を希望しましたが、どこの大学も特高警察を怖れ、引き受けてもらえず、やむなく、そのまま火葬にしたそうです。

※小林多喜二(wikipediaより)
※小林多喜二(wikipediaより)
※昭和13年頃の特高警察の事務風景。当時、特高警察は各都道府県警察の内部に「特別高等課」という名前で事務所を構えていた。(wikipediaより)
※昭和13年頃の特高警察の事務風景。当時、特高警察は各都道府県警察の内部に「特別高等課」という名前で事務所を構えていた。(wikipediaより)

特高警察とスパイ

特高警察と言えど官僚ですので成果を挙げなければ上層部から良い評価はもらえません。そして成果を挙げるためにスパイを活用するのが常套手段でした。

スパイMが現われる前、日本共産党には小曾根という人物をスパイとして入り込んでおり、沢山の共産党員が検挙されました。中でも特高警察が最も逮捕したかった当時の委員長であった田中清玄の逮捕もスパイ小曾根の情報からでした。

また、小林多喜二の逮捕は三船留吉というスパイが手引きしたものです。何故、こんなに簡単にスパイが作れるのか、と疑問に思う方もいるでしょう。それには戦前の昭和初期の状況を知らなければなりません。

昭和恐慌とロシア革命

ウォール街の大暴落から始まった昭和恐慌は日本の経済をどん底にまで叩き落とし、多くの会社が倒産。多くの労働者は突然、解雇され、退職金もなく露頭に迷う結果となり、多くの労働争議と呼ばれる経営者対労働者の対立が起こりました。

大正6年にロシアで起きたロシア革命は日本の人々にも思想的影響を与え、共産主義という新たな社会運営のやり方が注目を浴びた結果、多くの労働組合は共産主義を自分達の行動の裏付けとしたのです。

また、学生も新しく現れた共産主義というものに興味を持ち始め、共産党に入ろうという人が続出しました。しかし当時の共産党は党員希望者を選別し、誰でも受け入れるという事はしませんでしたので入党できたのはごく一部の人達だけでした。しかし党員になれなくても、あちこちに共産主義を旗印にした労働組合的な組織は沢山あり、そういった所では誰でも受け入れてくれる所も多かったのです。つまり共産主義に憧れることは当時の風潮でした。

しかし共産主義を信奉することは特高警察に捕まる理由となります。「取り調べ」と称して、特高警察はひどい拷問を行いました。その拷問に耐え切れず、あるいは気の弱い人は拷問の恐怖だけで、いとも簡単に転向してしまい、逆に特高警察に協力するようになってしまうのです。

また、特高警察は成果を挙げたスパイに報奨金も支払っていました。つまり「スパイになれば身の安全が保証され、お金ももらえた」のです。もちろん逮捕する時にはスパイも一緒に逮捕しますが(そうしないとスパイだとバレてしまうので)スパイは、こっそりと裏口から逃がされました。そしてアジトに戻ると「いやー危なかった。運よく俺だけ助かったんだよ」と言えば、良いのです。

スパイ小曾根も昭和5年に姿を消すまで、ついに共産党内では誰一人、スパイだと気づいた人はいなかったそうです。

スパイMの登場

当時の特高警察の毛利課長はスパイ小曾根を自分の官舎に一か月住まわせ、スパイのノウハウを聞き出し、あらためてスパイの有効性を確信しました。そして小曾根の後釜となるスパイを物色し始め、毛利課長が目を付けた人物がMだったのです。

Mこと飯塚盈延は愛媛の士族出身で非常に頭が良く、切れる人物でした。また、リーダーシップもあり将来、共産党の中心的人物になるであろうと思われたのです。実はMを最初に見出したのは通称「渡政」と呼ばれる当時の共産党の中心的人物である渡辺政之助でした。

Mは頭が良いばかりでなく、膂力があり無口で行動力に優れ、リーダーシップもある人物だったので「将来の共産党幹部候補」としてソビエトの共産大学であるクートベに留学させることにしたのです。

しかしMがソビエトで見たものは「醜い権力争い」でした。本で学ぶ理論と現実はあまりにも違いすぎ、クートベに留学中、彼は共産主義に幻滅してしまった、と言われており、それがスパイになる大きな理由となったと考えられています。

留学を終えて日本に帰ってきた彼は偶然、渡辺政之助の下で動いていた時代に知り合った特高警察の人物に出会い、自らスパイになることを申し出たと言われています。事実、彼は逮捕されたことが無く、従って拷問を受けた事も一度もないのです。そして彼の人物像は毛利課長が描いていた「理想のスパイ」と見事に合致していたのです。

非常時共産党の誕生

田中清玄の逮捕で主要なメンバーが全くいなくなってしまい、日本共産党は事実上、壊滅状態でした。しかしクートベに留学していた風間丈吉、紺野与次郎らが帰国し共産党の再建に取り掛かります。

風間はMとはクートベ時代からの付き合いでした。先に帰国していたMは風間、紺野とともに再建作業に協力する形で日本共産党に入り込みます。彼らの作った日本共産党を「非常時共産党」と呼びます。この時は太平洋戦争が始まる少し前の時期ですので「非常時」という言葉が付けられたのです。

非常時共産党では風間が委員長となり、紺野与次郎とともに主に理論面の指導を担当し資金面やアジトの確保などの実務的作業はMが担当することになりました。

非常時とはいえ、未だに共産主義に興味を持つ人は多く、この非常時共産党は、特高警察が全く手を出さなかったため、それまでの共産党の中でも最大のメンバーを誇る大組織に成長します。特高警察は「Mがいる限り、いつでも検挙できる。どうせ検挙するなら多い方が良い」と考え、わざと放置していたのです。

組織が大きくなるにつれ、Mは共産党本体とは別に「家屋資金局」という独立組織を作り、そこを支配します。つまり表面では風間、紺野を旗印とし自分は裏方に徹するようにしたのです。

しかし、風間も紺野も他のメンバーもMからもらった資金で活動しているので実質的にMに支配されているようなものでした。非合法組織ですのでメンバーの本名や住所は、例え党員であってもお互いに知らせることはしません。もし誰かが捕まって自白したら、それまでだからです。

こうしたことから委員長である風間も党員の住所や仕事は全く知らなかったのですが、Mは「実務的必要性」から、それらをすべて知っていたのです。これはMが最初から計画していたシナリオでした。そして特高警察から依頼があると党員を数人、手引きして逮捕させ「必要な成果」を挙げさせていたのです。

特高警察の毛利課長は「共産党は俺の手の内にある」と語っていたそうですが、Mがいる限り、まさにその通りだったのです。

上海共産党の壊滅と大森銀行襲撃事件

実は日本共産党の活動資金の大部分はソビエトから上海共産党経由で送られてきていました。つまり日本共産党は「ソビエト共産党日本支部」だったのです。

党員は時々、上海に行く任務を与えられました。上海でも共産党は非合法なので秘密裡に活動を行っていましたが、上海共産党との接触方法を把握したMはそれを特高警察に知らせ、摘発させて壊滅させます。そして資金面に行き詰まったという状態にして党員に銀行強盗をするよう命じます。これが大森銀行銀行襲撃事件と呼ばれるもので、共産党のイメージダウンに大きな役割を果たしました。

Mは党員を売るだけでなく、共産党のイメージが悪くなるよう密かに色々な手も打ったのです。これらは全てMの作った「家屋資金局」が独自に行ったことで風間や紺野は知る由もないことでした。

熱海事件

昭和7年、日本共産党は全国大会を熱海で開催することにし、中央の幹部及び地方の代表が全員、集まることにしました。ただ、紺野与次郎だけは「万一に備え」出席を見合わせ隠れ家で待機することにしました。

特高警察の毛利課長は「時は満ちた」と考え、大量の特高警察員を熱海に送り一網打尽にする用意を始めました。また委員長である風間だけは熱海ではなく事前にMに手引きさせ逮捕することとしました。熱海では大人数になるので、誰が風間委員長であるか分からなくなる可能性を考えたのです。

またMからの情報で紺野与次郎の潜む隠れ家にも腕利きの特高警察官が数名、送られ一斉摘発が行われました。これは見事に成功し非常時共産党は壊滅に追い込まれます。そして、この熱海事件をもってMは姿を消してしまいます。

熱海事件で検挙されたメンバーの裁判が始まると、メンバーは被告人の中にMがいないことを不思議に思いました。また、検事もMのことに一切触れないことに違和感を持ちました。

しかしMは中心的存在だったので、どうしても言及しなければならない場面も出てきます。その場合は「松村こと某」という表現が使われ、メンバーは初めてMがスパイだったことに気づきます。

ただ、紺野与次郎だけは検挙された時にMがスパイであったことに気づいていました。紺野の隠れ家の場所を知っていたのはMだけだったからです。一方、風間丈吉はMとクートベ以来の友人であり家屋資金局は独立した組織だったので「Mは別の裁判なのだろう」と考え、Mがスパイとは考えず、その後も長い間、その考えは変わらなかったそうです。

以上がスパイMの行った行為の全貌です。日本共産党はスパイMのことがあり、その後、スパイに対して異常に敏感な体質となりました。また共産党に対する世間一般のイメージもMのために大きなダメージを受け「危険な連中」と見られるようになってしまったのです。

その後のM

役割を終えたMは特高警察から多額の報奨金をもらい姿を消しました。一説によると、とりあえず行った先は満州だとのことですが、確証はありません。

その後、Mは日本国内で偽名のまま結婚し、子供も授かりました。偽名ですので戸籍はありません。本当の戸籍は愛媛にあるのですが、それを移籍すると「居場所を突き止められてしまう」と考え、一切、戸籍には手を付けなかったのです。

Mは共産党だけでなく、特高警察に居場所を知られることも警戒していました。何故なら「用済みの元スパイ」など邪魔な存在でしかないだろうと考えたからです。戦時中は特高警察を怖れ、戦後、GHQにより旧共産党員が保釈されると、今度は彼らに突き止められることを怖れました。

最初は十分にあった生活資金もさすがに底をついてきます。もちろん銀行口座など作っていません。とにかく「自分の住所、氏名を明かすこと」を徹底的に避けたのです。Mは妻や息子には事情を打ち明けており、子供は妻の戸籍にいれ「私生子」という形にしたようです。ひたすら、居場所を突き止められることを怖れながら暮らし、熱海事件から33年後の昭和40年に逝去するまで、家族以外には誰にも気づかれることなく、ひっそりと暮らしていたとのことです。

Mが死んだ時、戸籍がないので役場から火葬許可が出ず困ったそうですが、「とにかく死んだのだから」という理由で無理に許可をもらい、火葬に付したそうです。ですので、愛媛のどこかにある「「飯塚盈延」というMの本名が記された戸籍は今でも残されており、生きていることになっているそうです。

その後のMの生涯については小林峻一氏と鈴木隆氏の共著である「スパイM」に詳細に述べられていますので興味のある方は同書を参照して下さい。


太平洋戦争で日本は敗戦し、陸軍・海軍が無くなりました。そして治安の悪化を怖れた日本政府は特高警察を強化する許可をGHQに求めたそうです。しかし事情を知っていたGHQは逆に治安維持法と特高警察の廃止を日本政府に命令します。これはGHQの思惑によるものだったようです。

元特高警察の要員の多くがGHQの日本国内の活動要員として雇われたそうです。また、元特高警察のメンバーは誰一人として戦犯にも指定されず、中には政治家になったり引き続き警察官僚として採用されたりした人も出ました。

つまり、特高警察の名残りは現在の日本にも引き継がれているのです。特にGHQに雇われた要員はCICと呼ばれる日本国内の活動組織に属しGHQが命令した「色々な仕事」の実行部隊として使われた、とのことです。

有名なところでは「キャノン機関」というのがありますが、キャノン機関は松本清張氏の指摘する通り「氷山の一角」と考えるべきで同様の機関が多数あったことは想像にかたくありません。戦後のGHQ駐留時代に起きた下山事件、松川事件、白鳥事件、三鷹事件など多くの未解決事件に彼らが、どれくらい関わっていたのかは、今となっては知る術はありません。

また通称「M資金」と呼ばれるGHQのマーカット局長が日本国内で築き上げたとされる資産の話もあり、それは今でも旧CICのメンバー(つまり旧特高警察のメンバー)に管理され、何等かの用途に使われている、との噂もあります。つまり特高警察は消えたものの、そのメンバーは今でも「裏の仕事」に関わっている、というのです。

それが本当だとしても、一体、何が行われているのかは、私達、一般庶民に知らされることは、まず無いでしょう。出来れば「噂」であって欲しい話です。

ですが時々、起こる不思議な現象、例えば、実にうまいタイミングで政治家のスキャンダルがマスコミに流されたり、ロッキード事件のような疑獄事件が起こると、不思議なくらいに「要となる官僚の自殺」が起きたりするのは何故なのでしょうか?

しかし、それを調査することは止めておいた方が賢明です。それはスパイMのような優秀な人物ですら怖れさせた闇である可能性が非常に高いからです。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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