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天秀尼と成田甲斐姫
- 2022/07/04
【目次】
天秀尼(てんしゅうに)は大坂夏の陣で滅亡した豊臣秀頼の娘です。秀頼の正室千姫の助命嘆願で生きながらえて、鎌倉の東慶寺に入りました。
父や兄たちの菩提を弔いつつ、ひっそりと暮らしたのですが、なかなか筋の通った立派な行いをしたようです。そしてその天秀尼の陰に、ひとりの高貴な女性がいたということもご紹介しておきますね。
1、大坂夏の陣で初めて公の場に登場
天秀尼は、慶長14年(1609年)の生まれといわれてますが、生母も俗名も不明です。当時16歳の豊臣秀頼と侍女の間の子では?と言われ、ひとつ上の兄国松と同じく、正室の千姫(まだ12歳だったけど)を憚って、生まれてすぐに大坂城から出されて育てられていたものの、大坂冬の陣の前に大坂城に呼び寄せられたようです。そして大坂夏の陣で落城後、捕らえられて初めて公の場に登場したと言うことです。
兄国松は処刑されましたが(存命説もあり)、天秀尼の場合は、18歳になっていた千姫が助命嘆願をがんばってくれました。そして自分の養女(秀頼は千姫の従兄なので従兄の子になる)にして、天秀尼は尼寺に入ることを条件に助命されたのです。このとき天秀尼は7歳でした。
2、千姫をバックにコネもばっちりの東慶寺
鎌倉の縁切寺東慶寺は、北条時宗の夫人・覚山尼の開山と伝わっていて、その後も後醍醐天皇の皇女や代々の関東公方、古河公方、小弓公方の娘が住持をつとめた格式高い尼寺です。そして天秀尼の師の瓊山尼は、秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘振姫に仕えていた小弓公方の娘月桂院の姉だということで、天秀尼は2代将軍秀忠の娘千姫と祖父秀吉の側室のコネクションで格式高い尼寺で過ごすことになったわけですね。
天秀尼は禅を学ぶために、円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとか、あの沢庵和尚に教えを請おうとしていたということで、本気で仏の道を究めていたようです。
天秀尼と千姫とは季節の果物や旬の筍などのやり取りもあり、千姫の弟の忠長が切腹後、屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進されたり、あの春日局も寄進しているということで、徳川家の女性たちとの関係は決して形式的で表面だけのものではなかったのですね。
3、開山以来の寺法に「権現様御声がかり」をゲット
東慶寺の伝承によれば、天秀尼が入寺の際に、徳川家康に手紙で「なにか願いはあるか」と聞かれて、「開山よりの御寺法を断絶しないようにしてください」と答え、それで同寺の寺法は、権現様のお声掛となってより確かなものとなったとあるそうです。天秀尼がこのようなやり取りが出来たとは思えず、天秀尼の側にいる大人がそう書かせたのはバレバレですよね。
しかしこれが、その後江戸時代を通じて、縁切り寺に入って助かろうとした弱い立場の女性たちの訴訟にかなりの影響力を及ぼしたと言うことです。その一つで超有名なのが、「会津騒動」と言われる加藤明成の改易事件でした。
4、会津騒動
会津騒動は、江戸時代初期に起こったお家騒動です。会津藩の加藤嘉明の死去で息子明成の代になり、明成の失政で重臣の堀主水らと対立。堀が一族郎党を引き連れて会津を出奔、幕府に訴えましたが、将軍家光は主君に逆らったとして堀らに切腹を命じました。
堀らは妻子を東慶寺に預けたのですが、加藤明成は堀の妻子らを強引に寺から会津に連れ戻そうとしたので、天秀尼が養母千姫を通じて幕府に訴えて、堀の妻子を助命、結果として会津藩40万石加藤家は取り潰しとなったのです。
5、天秀尼の墓の側に埋葬された高貴な女性とは?
天秀尼は、加藤明成の改易の2年後に、37歳で死去しました。彼女の墓の側には天秀尼の死の半年後に亡くなったと記された、高貴な女性の宝篋印塔があります。墓は格式があり、戒名も「「台月院殿明玉宗鑑大姉」と院号があるため、かなり身分が高くて尼ではない在家の女性だということです。これが誰かは不明なのですが、秀吉の側室となった成田甲斐姫ではないかと言う説があります。
甲斐姫は、忍城城主成田氏長の長女で、秀吉の小田原征伐の際、忍城を一族郎党と共に預かって石田三成らの豊臣軍から城を守りぬいたことで有名です。秀吉の死後は秀頼の養育係になったとか、天秀尼の養育に携わったとかの説がありますが、不明です。
しかし、天秀尼が落城する大坂城を脱出するときに男勝りの甲斐姫が側にいて、千姫に助命嘆願をお願いし、そして会津騒動での毅然とした天秀尼の姿勢も、甲斐姫が側で指導したから、と考えると筋が通るのではと思うのです。
まとめ
豊臣秀頼の娘天秀尼は、7歳で助命されて尼になりました。徳川千姫の養女となり徳川家のバックアップ(千姫は本多家から帰ってきても弟家光に信頼され、徳川家で重んじられていました)をゲット。そして大名家のお家騒動に巻き込まれても毅然とした態度で立ち向かい、弱い者たちを守り幕府に訴えて結果的に大名家を潰すという力を発揮しました。
ああ、彼女が大坂冬の陣の時に大人だったらと思うほどの男前な偉業です。しかしその天秀尼の側に寄り添う、謎の高貴な女性が男勝りの忍城を守ったあの成田甲斐姫ではないかと言われれば、天秀尼の偉業も納得できるような気がするのです。
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