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【教科書で一度は見た事ある?】漢倭奴国王の金印をご紹介
- 2022/11/17
上記メイン写真にある金色のハンコは、中学・高校の日本史の教科書でよく記載されている「金印」です。一辺2.3cmで重さはわずか108グラムであり、鈕(つまみ)には蛇が巻き付いています。皆さんも一度はこの金印を見た事があるのではないでしょうか。今回は金印を紹介いたします。
なぜ金印は日本にやってきた?
金印に刻まれた文字は「漢委奴国王(かんわのなのこくおう)」であり、漢の皇帝が委奴国王に与えたものであることを示しています(写真1)。中国の歴史書である『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に印を与えたことが書かれており、この印が福岡県志賀島で見つかった金印であると予想されています。
漢では官位につくと、文書を送る時に印が与えられており、外交の時も他の国の王様に官位と印を与えていました。官位と印を与えることで皇帝を頂点とする国際社会を作る狙いがあったからです。
漢を頂点とし、倭(日本)の奴国を従えるという国際関係が、この金印の発見と金印が辿ったルートから理解できます(写真2)。
いつ金印は見つかった?
天明4(1784)年2月23日(現在の4月12日)に金印が福岡県志賀島で発見されました。発見者は、口上書を提出した甚兵衛とされていました。しかし1830年代に著された『志賀島小幅』によると秀治と喜平の名前が一緒に書かれています。また、『万歴家内年鑑』には秀治と記されています。このことから、彼らは甚兵衛の奉公人であったと考えられています。
出土地について文献には「叶崎」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場しています。金印の出土地点を最初に推定したのは中山平次郎という学者さんです。その根拠となったのは志賀海神社宮司の安雲家に伝わる『筑前国続風土記附録』の絵図でした。
おわりに ─金印を見に行こう!─
現在、金印は福岡市博物館の常設展コーナーの1番最初の部分に展示されています。薄暗い空間の中でライトアップされた金印はとても美しく、近くの手すりには、触ることが出来る金印の復元模型がくっついています。
また、お土産コーナーでは金印を模したハンコが販売されており、当時の漢の皇帝や倭奴国の王になりきれます。
金印に興味のある方は是非福岡市博物館まで足を運んでみてください。
※参考文献
- 福岡市博物館 展示パネル
- 福岡市博物館 2013『FUKUOKA アジアに生きた都市と人びと』(福岡市博物館常設展示公式ガイドブック)
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