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日本洋菓子事始め キャラメルとチョコレイト

私は甘いものが好きなので、仕事の休憩など、ついついキャラメルやチョコレートを食べてしまいます。

そういえばこうした洋菓子って、いったいいつから普及したのだろう?明治?大正?そう言えばバレンタインは昭和にお菓子メーカーが作った日本独特の習慣らしいぞ…。

その謎をさぐるため、今回は日本の洋菓子の歴史について調べてみました。

観劇のおやつで大ヒット。森永製菓のキャラメル

キャラメルといえば、まっさきに森永製菓の箱入りキャラメルを思い出します。そんな森永キャラメルの歴史は古く、明治時代に創業者・森永太一郎が、アメリカで洋菓子技術をまなび、日本で製造販売をはじめました。

最初は「乳臭い」と言われてなかなか売れず、和菓子屋に足蹴にされたりと苦労をしたものの、徐々に森永のキャラメルは受け入れられていきました。

そして、あるきっかけでキャラメルが大ヒットします。それは帝国劇場の創設でした。西洋式の劇場では芝居小屋と違い、観覧のあいだ音をたてることができません。
そこで、箱入りにしたキャラメルを売り出したところ、音をたてずに食べられるお菓子として大ヒット。

その後、登場した映画でもキャラメルは愛され、「お煎にキャラメル~」と売り子の掛け声に歌われるほど国民的なお菓子となっていきます。

また、森永太一郎は「豊かで安全な食生活の実現と健康の増進に貢献できる企業」を理念としていました。そのルーツは精神はアメリカで洗礼を受けたことや、叔父から「誠実な商売をしろ」と教えられたことでした。

そんな森永太一郎には、その人柄を伝えるやさしいエピソードが残っています。
昔、洋菓子の行商で商品を和菓子屋の主人に足蹴にされてしまいました。

その後、偶然にも恩人から「雇ってほしい」と紹介された人物こそ、没落した元和菓子屋の主人だったそう。そのとき太一郎は、彼を快く雇い入れたそうです。

高級チョコとロシア革命とバレンタイン

日本におけるチョコレートの始まりは、森永製菓の「玉チョコ」です。これはチョコの中に甘い砂糖クリームを入れただけのお菓子でした。その後、板チョコも出回りますが、チョコレートは当時、子どもや女学生などが食べるお菓子だと認識されていたのです。

しかし、この子供向けのチョコに対し、チョコレートを高級菓子として売り出そうとしたのが、ロシア人の菓子職人・モロゾフ一家でした。

そのきっかけはロシア革命。1910年代、日本には革命で祖国を追われた多くのロシア人が来日しており、彼らは日本でパンや西洋菓子作りに関わりました。

モロゾフ一家も神戸に移住し、高級チョコレート作りをはじめました。当時の神戸はロシア、中国、イギリスなど、さまざまな人種が暮らす国際都市でしたので、顧客は多く、商売は順調かと思われました。

しかし、夏になるとせっかくのチョコレートが溶け出してしまうというトラブルに見舞われます。寒いロシアと暑い日本ではチョコレートの扱いも変えねばなりませんでした。

モロゾフ一家は、日本人や在日外国人の客に合わせて味を改良することで、徐々に商売を発展させていきました。やがて高級チョコレートは贈答品やティータイムに欠かせないものとなっていきます。

そして、1932年に日本で初めて「バレンタインデーにチョコレートを贈る」キャンペーンを展開し、その後日本のバレンタインは「高級チョコレートを贈る日」として定着したのでした。

まとめ

キャラメルを作った森永太一郎も、日本のチョコレートを高級なものにしたモロゾフ一家も、誠実な人柄でした。

人にだまされたり、戦争中にひどい目に合わされたりしたものの、彼らの誠実さは周りを動かし、再生のチャンスを与えました。

ただお菓子を作って売るだけでなく、客の事を考えて誠実な商品をつくってきたからこそ、これらの洋菓子は今も愛されているのかもしれませんね。

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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