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俳人「正岡子規」が愛した野球
- 2022/08/01
野球を愛した明治の俳人
明治時代、当時廃れてしまっていた俳句や短歌を再び世に広め、俳句界の繁栄に大きく貢献した俳人が正岡子規です。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句で有名ですね。時は明治17年あたり。正岡子規は東京大学予備門時代にベースボールと出会い、野球に熱中したとされています。
明治22年7月には、郷里となる松山までバットとボールを持って帰郷し、松山中学の学生たちにベースボールを教えました。
明治23年2月には、正岡子規著の筆まかせ抄(岩波文庫)において、初めて「野球」が登場します。この中で、子規の改名後の幼名が「升(のぼる)」だったことから「野球(のぼーる)」と読ませていました。
明治29年、日本新聞に連載された「松蘿玉液」において、野球のルール・用具・方法などが詳しく解説されています。この頃からの正岡子規の句に、野球を詠んだ短歌や俳句が数多く見られます。新聞や自分の作品の中でも積極的に紹介し、野球の普及に大きく貢献したのです。
「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」や「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」などが残っています。
野球に夢中
様々な短歌や俳句を詠んだ正岡子規、しかし子規の魅力は子規自身にあったようです。自分に師事した弟子たちはもちろんのこと、当時文豪であった著名人たちとも広く交流を持っていました。多くの人が憧れ、愛した正岡子規は、いったいどのような人物だったのでしょうか。
当時、アメリカから伝わった野球に夢中になった正岡子規。野球にのめりこんだ彼は、野球のルールを解説した手引書まで作っているんです。英語からの解説だったので、投手・捕手・内外野手などのように、適切な日本語に要約したのが正岡子規だったのです。
当時の野球は、英語読みのベースボールと呼ばれていました。しかしなんと、子規が好んで使ったペンネームが後の日本における「野球」でという呼び名に変わるのです。その後の子規は、東京帝国大学哲学科へ進学した後に国文科に転科しますが、その頃患っていた結核が悪化してきたこともあり、勉学よりも後進の指導に力を注ぐことに力を入れていきます。
子規の思いとは異なり、病気になったことから、後の世代の若者のことを考えるようになったのでしょう。
のボール
野球が大好きだった正岡子規はベースボール用語を日本語に訳した人物でもありました。打者・走者・四球などなど、現在の野球で今でも使われている用語ですね。正岡子規自身の雅号も、改名した後の幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」と名付けているんですよ。東京の上野公園には、「正岡子規記念球場」という名の野球場があります。明治23年(1890年)、正岡子規自身もこの球場で野球の試合をしているんですよ。野球が日本に伝わって間もない頃で、まだまだ歴史の浅い時代でした。
そして時代は移り令和になった今でも、正岡子規が愛した高校野球甲子園大会が続いています。「夏草や ベースボールの人遠し」(子規)
上野公園に近い住宅街には、正岡子規と家族が暮らしていた「子規庵」が残っています。朝まで仲間と語り合い、庭を眺めながら俳句を詠んでいた部屋に座れば、同じ空気を吸っている感覚になれますね。
「子規庵」には、今も多くの若者が訪れています。現在、再び俳句が見直されてきているようで、空の上から子規も喜んでいることでしょう。
野球殿堂入り
2002年、正岡子規が野球殿堂入りしていたことを知っていますか?子規は明治17年の予備門時代、ベースボールに熱中しました。守備は捕手だったとか。野手に向かって発する掛け声も俳句だったりして(笑明治22年7月には松山に帰省し、松山中学の生徒らにベースボールを教えたとされ、この3年後に松山中学に野球部が創設されています。当然に、創部にあたっては子規が関わったと言われているんですよ。
23年2月には、幼名の升(のぼる)をもじって「のぼーる」と名乗っています。実はこの頃、まだベースボールが野球と言う和名に翻訳されていませんでした。野球と翻訳されるようになったのは、この4年後の明治27年になります。
これは子規の意志が通じたのでしょう、はたまた偶然だったのでしょうか。どちらにしても、子規が喜んぶ顔が浮かんできますね。
これら正岡子規が尽力(好きでやった?)したことが、野球の普及に多くの貢献をしたとされています。それは、2002年のオールスターゲーム第2戦の5回終了後に表彰式が行われました。俳人正岡子規が新世紀特別表彰枠によって野球殿堂入りしたのです。
日本野球の創世記において、子規が与えた影響は大きかったのだといえるでしょう。その野球殿堂は野球体育博物館内にあります。
・「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」
・「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
・「まり投げて見たき広場や春の草 」
・「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」
野球が好き過ぎたために、気管や肺からの出血によって野球ができなくなった時でも、正岡子規はバットを筆に持ち変えて、常に野球のことを思っていたのでしょう。
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