「唐沢山城の戦い(1560年~)」謙信が10年かけても落とせなかった!?下野の名将・佐野昌綱の唐沢山城

帯刀コロク
 2020/11/30

唐沢山城(栃木県佐野市)の本丸石垣
唐沢山城(栃木県佐野市)の本丸石垣

「軍神」とまで呼ばれる名将、越後の「上杉謙信」。戦国期を代表する武将の一人としてあまりにも有名ですが、もちろんその軍事行動のすべてに勝利したわけではありませんでした。

なかでも、関東地方での覇権をかけた戦いでそこに立ちふさがったのが、下野(しもつけ:現在の栃木県あたり)国南部の「佐野氏」でした。越後の上杉と相模の後北条にはさまれる形という、地政学上過酷な土地を本拠とした佐野氏は、巧みな舵取りで戦国の世を生き抜きました。

今回は永禄3(1560)年に始まり、上杉謙信がおよそ10年をかけてもついに攻略することができなかった、佐野氏との「唐沢山城の戦い」について見てみましょう!

  • 上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
  • 相模・小田原の勢力は混乱を避けるため「後北条」で統一します。

合戦の背景

上杉vs後北条の板挟みになった下野国・佐野氏

まず、謙信が干戈を交えることになった下野国の佐野氏について概観しておきましょう。

佐野氏は古河公方の足利氏に仕えた武将で、唐沢山城の戦い当時の当主は15代目「佐野昌綱」でした。

古河公方および室町幕府そのものが弱体化するにつれ、相模の後北条氏が台頭。やがて越後の上杉氏が後北条氏征討に動き出すと、ちょうど両者の中間地点に拠点を持っていた佐野氏は過酷なパワーバランスにさらされることとなります。

一連の戦は、この佐野氏が拠った要衝の争奪戦と言い換えてもよいでしょう。

戦に至る経緯

そもそも将軍の求心力によっておらず、緩やかな有力大名連合ともいわれる室町幕府でしたが、関東地方では殊に戦国大名の勃興に著しいものがありました。

甲斐の武田氏・相模の後北条氏・駿河の今川氏といった、天下をうかがう力を持った諸大名があり、この三者は天文23(1554)年に「甲相駿三国同盟」と呼ばれる協定を結びました。

当時の関東管領は上野国の「上杉憲政」でしたが、後北条氏との紛争に敗れたことで窮地に陥り、そこで頼ったのが上杉謙信でした。

謙信が後に憲政より関東管領職を引き継ぐことはよく知られていますが、上洛のうえ関白「近衛前久」を奉じて憲政を補佐するという名分で兵を動かしました。

このように、謙信が幕府側の救援軍として後北条氏と戦ったことが、佐野氏との戦闘の直接の背景となっています。

合戦の経過・結果

一般に唐沢山城の戦いと呼ばれるのは、永禄3(1560)年から元亀元(1570)年の約10年、およそ9次にもわたる戦闘の総称です。

最初期のものは後世の創作である可能性も指摘されていますが、順を追って概観してみましょう。

唐沢山城の戦いマップ。色塗部分は下野国

永禄3年(1560年)2月の戦闘(※後世の創作の可能性あり)

謙信・佐野昌綱vs北条氏政→謙信・昌綱連合の勝利

北条氏政の軍に唐沢山城を包囲された佐野昌綱が、上杉謙信に救援を要請してともに氏政軍を撃退したとされる戦い。

江戸時代なかばに成立した軍記物で、一定の資料的価値を認められる『関八州古戦録』では、謙信がわずかな手勢のみでみずから敵陣を突っ切って佐野昌綱の救援に向かったとされています。

その記述によれば謙信は甲冑も着けずに愛用の十文字槍を携え、唐沢山城を攻囲する後北条軍の陣営を少数精鋭で突破しての着陣が描写されています。

一種の美談的創作の側面が強そうな内容ではありますが、この後約10年にもわたって昌綱は上杉と後北条の間を行きつ戻りつ、ついに唐沢山城を攻略させず佐野氏を存続させることに成功しています。

永禄3年のこの戦闘が史実かどうかはともかくとして、昌綱の巧みな外交バランスへの評価が後世人の間にも確立していた証拠ともいえるでしょう。

永禄4年(1561年)2月の戦闘

謙信vs後北条に降伏した昌綱→謙信は攻略できず撤兵

永禄4年(1561年)3月、謙信は佐野昌綱を配下に加えて後北条氏の小田原城攻囲戦を展開します。

しかし天下の堅城として名高い小田原を攻略することはできず、冬季に越後への帰還路が閉ざされる前に撤兵しました。

その間隙を縫って後北条が反撃、謙信からの援軍を得られなかった昌綱は北条氏康に降伏します。 これを反逆とみなした謙信は唐沢山城を攻撃、しかし防御性の高さと冬季という条件から上杉軍は一時撤兵を選択しました。

永禄5年(1562年)3月の戦闘

謙信vs昌綱→謙信は攻略できず撤兵

謙信は季節をあらためて唐沢山城を再攻撃しますが、またもここを攻略することはできませんでした。 折しも越中守護代・神保氏の反乱のため越中国へ派兵せざるを得ず、このタイムラグは後北条氏の勢力回復を招きました。

永禄6年(1563年)4月の戦闘

謙信vs昌綱→昌綱が敗北、唐沢山城は開城(昌綱は存命)

越中での軍事行動を終え、関東方面鎮圧に本腰を入れた謙信。 後北条方の諸城を多数攻略し、その中には重要拠点である唐沢山城も含まれていました。 ただし城将の佐野昌綱は処分されず、命脈をつなぎます。

永禄7年(1564年)2月の戦闘

謙信vs再反抗の昌綱→昌綱は徹底抗戦するも降伏(昌綱は助命)

前年の敗戦で降伏した昌綱でしたが、謙信が下野を離れた隙に再び反旗を翻します。

上杉軍が越後から上野国を通って古河御所へと向かうルートにあった唐沢山城は、ぜひとも押さえておかねばならない軍事上の重要地でした。したがって謙信は昌綱の離反を許さず、10年にわたる唐沢山城の戦いのうち、最大の激戦が繰り広げられました。

徹底抗戦した昌綱でしたが、最終的には説得に応じて降伏。しかし複数の助命嘆願があり、またしても昌綱はその命を長らえることになります。

永禄7年(1564年)10月の戦闘

謙信vs後北条についた昌綱→昌綱は降伏、謙信に人質を差し出す

第5次川中島の戦いで謙信が関東を離れている隙に、後北条氏が再び北関東に圧力をかけます。

脅威にさらされた昌綱はやむなく上杉方を離反。謙信はこれに征討の派兵を行い、昌綱は降伏して人質を差し出して恭順の意を示します。

永禄10年(1567年)2月の戦闘

謙信vs再び後北条につい昌綱→謙信は攻略できず撤兵

この当時の謙信は各地で同時に軍事行動を展開しており、前年に上野・下総の攻略に失敗したことから関東での基盤に揺らぎが生じていました。

勢力を盛り返した後北条の圧に、昌綱はまたも謙信のもとを離れるという舵取りを選択します。 謙信はこの際も唐沢山城奪還の兵を起こしますが、関東諸勢力からの援軍は得られず冬明けの再攻撃を期して撤兵しました。

永禄10年(1567年)3月の戦闘

謙信vs後北条方の昌綱→昌綱は降伏するが再び助命される(上杉と後北条が和睦・同盟)

雪解けを待って再び唐沢山城に迫った謙信はこれを攻略。幾度にもわたって謙信を翻弄した昌綱でしたが、またしても助命されることになります。

元亀元年(1570年)1月の戦闘

謙信vs昌綱→謙信は攻略できず撤兵

関東管領としての基盤が脆弱化していた謙信でしたが、後北条と武田との同盟関係に深刻な亀裂が生じます。 後北条は事態収拾のため謙信に和睦を提案、永禄12年(1569年)に「越相同盟」が成立し上杉vs後北条の対立は一時収束をみることになります。

唐沢山城の戦いの最後は、やはり昌綱の謙信からの離反によるものでした。 しかし過去の戦訓通り冬季の攻略は困難であり、謙信は唐沢山城から兵を引いています。

戦後

上杉と後北条の同盟関係は4年ばかりで終焉を迎えますが、佐野昌綱は1574年(天正2年)まで生き抜きその跡を嫡男の「佐野宗綱」が継ぎました。

以降も戦いの日々に明け暮れる謙信でしたが、佐野氏はその命脈を後世に伝えることに成功します。

まとめ

大国同士のパワーバランスにさらされながらも、見事な舵取りでそれをしのぎきった佐野昌綱。幾度にも及ぶ離反にも関わらず、謙信がそのすべてを許したことは特筆に値します。

「軍神」が10年をかけても、ついに屈しなかった「関東一の名城」唐沢山城。佐野昌綱の将器にも、大きな敬意を抱いていたのかもしれませんね。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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