「松倉城の戦い(1569年)」謙信を裏切り、信玄についた城!越中と越後の危ういパワーバランス

帯刀コロク
 2020/12/07

越中松倉城跡(富山県魚津市)
越中松倉城跡(富山県魚津市)

戦国時代を代表する武将の一人、「上杉謙信」の本拠地は越後国(現在の新潟県あたり)であることはよく知られています。

謙信といえば甲斐の「武田信玄」との戦いや、事実上最後の関東管領としての関東派兵等々の事跡が思い浮かぶのではないでしょうか。しかしその生涯をかけた戦いのなかには、隣国との困難なせめぎ合いも含まれていました。

今回は、越後の隣国である越中国(現在の富山県あたり)の勢力との衝突、「松倉城の戦い」にスポットライトを当ててみることにしましょう。

  • 上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
  • 相模・小田原の勢力は混乱を避けるため「後北条」で統一します。

合戦の背景

越中国内の紛争

松倉城の戦いを知るために、まずは当時の越中国の情勢をかいつまんで見ておきましょう。

その根本には越中国守護代「神保長職」と、元来越中国新川郡の守護代を務めた家柄の国人「椎名康胤」との紛争がありました。 康胤は終始劣勢であり、椎名氏は越後・長尾氏に臣従していたこともあって度々謙信に救援を要請しています。

それにも関わらず神保長職の攻撃の手は緩まず、永禄5(1562)年には康胤の拠点である松倉城に肉薄されてしまいますが、この時も謙信が救援に駆け付けて長職を降伏させるに至ります。

しかし長職は能登畠山氏の後援もあり勢力を温存、この処遇に康胤は大いに不満を募らせました。

戦に至る経緯

一時謙信から春日山城を任されるなど強い信任を得ていた椎名康胤でしたが、永禄11(1568)年に武田方へと寝返ります。

武田方からの調略があったともいわれ、これを重大な脅威と捉えた謙信が康胤討伐の兵を発したのが、松倉城の戦いへの経緯です。

合戦の経過・結果

越中「松倉城」とは

まず、謙信の攻撃対象となった椎名康胤の松倉城とはどういった城であったのかを概観しておきましょう。

松倉城は標高約431メートルの松倉山山頂(現在の富山県魚津市)に位置した山城で、「越中三大山城」のひとつに数えられています。

三方は断崖絶壁に囲まれ、南北方向約1キロメートルにおよぶ5つの曲輪を有するという、越中最大級の要塞でした。 比高は約360メートルあり、平地からも高い位置にある峻険な自然地形がこの城の高い防御力を生み出しています。

松倉城の戦いの要所。

永禄12年(1569年)の戦い

永禄12(1569)年8月、謙信は康胤征討の軍を発して松倉城を包囲。

伝説では100日間にわたって謙信の攻撃をしのいだといわれることがあるようですが、8月23日付『上杉輝虎書状』(大河原辰次郎所蔵文書)によるとこの戦いで康胤は城を追われたとされています。

戦闘の詳しい状況は明らかではありませんが、遅くとも鎌倉末期には築城されたと考えられている松倉城は、歴史上幾度かの落城を経験していることが予想されます。

『太平記』にも見られるように、南北朝時代初期より松倉城は守護の拠る城として認識されており、度々戦場となってきました。

越中の拠点として重要な位置付けをもつ松倉城が武田方の勢力下に組み込まれることは、謙信の越後にとっては絶対に避けるべき事態だったといえるでしょう。

したがって、「難攻不落」の慣用句が似つかわしい松倉城ですが、この攻略には謙信も不退転の決意で臨んだことは想像に難くありません。

謙信がこの戦で手中にした松倉城は魚津城と並ぶ上杉氏の有力支城となり、長尾氏家臣「河田長親」らが在番して守ることになります。

戦後

武田氏と組むという策で謙信の喉元に刃を突き付けた椎名康胤でしたが、松倉城を追われてのちは加賀一向一揆に呼応。

元亀元(1572)年には一揆とともに富山城に陣を張りますが、今度は謙信と結んだ神保長職の要請で上杉軍の攻撃により退けられます。

謙信は危ういながらも、越中での優位性を保持することに成功したといえるでしょう。

まとめ

長年にわたって相模の後北条氏と対立し関東各地で軍事行動を展開していた謙信でしたが、その情勢にも転機が訪れます。

後北条・武田・今川のいわゆる「甲相駿三国同盟」が破綻し、永禄12(1569)年に後北条方の提案を受け入れ「越相同盟」が成立します。

これにより関東方面での戦闘行動が一応の収束をみたため、兵力を北陸・中部方面に集中させられるようになりました。

しかし、宿敵ともいえる後北条との同盟はそれまで上杉方についていた勢力からの不信を招くことにもなり、謙信のもとを離反する者も少なくありませんでした。

松倉城の椎名康胤の裏切りにあったことも無縁ではなく、謙信が必ずしも強力な求心力をもっていたわけではないことを示唆しています。

「義の武将」とも呼ばれる上杉謙信ですが、この松倉城の戦いを振り返ると、実に危ないバランスの上で舵取りを行っていたことが浮き彫りになるかのようですね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
  • とやま観光ナビ 松倉城跡

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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