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【やさしい歴史用語解説】「櫓(やぐら)」

金沢城
金沢城
たくさんある城郭施設の中で、もっとも重要な場所の一つが「櫓(やぐら)」です。櫓の移り変わりを見ていくだけで、城がどのように変遷を遂げていったのかがわかるほどです。

まず櫓の大切な役割として、「物見」というものがあります。例えば接近してくる敵をいち早く発見したり、どこから攻めてくるのかを見極めることが重要でした。そもそも中世は質素な土造りの城がほとんどですから、大きな建造物を建てることができません。そこで材木を骨組みとした「井楼(せいろう)」が数多く建てられました。

井楼のメリットはとにかく高い位置に作れますし、何より費用が安いこと。おそらくほとんどの城郭に井楼が建てられたことでしょう。現在でも、山城遺構を復元している城では実際の井楼を見ることができますね。

※復元された金灌城の井楼
※復元された金灌城の井楼

しかし井楼にはデメリットもありました。防御力が低いために鉄砲や矢の的になりやすいことです。火を掛ければあっという間に焼け落ちますし、鉄砲の弾に耐えられるほど頑丈でもありません。

そこで安土桃山時代になると、織豊系城郭という新しい城が出現します。これは石垣を築くことで城そのものの防御性を高め、さらに枡形や横矢を設えるなど、様々な工夫が盛り込まれた「戦うための城」でした。

また井楼の代わりに櫓が登場します。「矢倉」とも書くため、ここに矢玉を常備・保管し、いざ合戦となれば優れた防御施設として威力を発揮したそうです。

初期の櫓は基本的に板で囲うなど質素なものでしたが、豊臣秀吉の時代になると一挙に見違えるようになります。屋根は瓦で覆われ、壁材として漆喰も用いられました。また天守と見まがうほどの大規模な櫓も登場しています。

※復元された足助城の櫓(wikipediaより)
※復元された足助城の櫓(wikipediaより)

やがて江戸時代を迎えると、徳川氏が進める「天下普請」が城郭発展に大きな役割を果たします。縄張りは巨大化し、建造物もどんどん大きくなっていきました。それは大名の城も同然で、現在見られる近世城郭のほとんどはこの時期に築城されています。

また櫓は規模もさることながら、一つの城に対して数を増やしていきました。例えば広島城ですと76棟、姫路城であれば61棟の櫓が確認されています。天守は城のシンボルといえる存在ですが、その威容を支えるのは大小の櫓群だったわけですね。

ちなみに福山城や明石城などに「伏見櫓」が現存していますが、徳川氏が築城した伏見城を取り壊す際に移築されたものです。櫓を解体して運び、再び組み上げるという高度な技術は、やはり日本ならではですね。また建材が簡単に手に入らない時代ですから、一般的にリユースという考え方が浸透していたのでしょう。

※江戸城伏見櫓(wikipediaより)
※江戸城伏見櫓(wikipediaより)

さらに櫓は単に一つの建物だけに収まりません。城壁に沿って「渡櫓」や「続櫓」といった連続する構造物が作られ、城でもっとも重要な門の上に櫓を配置する「櫓門」が作られました。こうして城の防御性をより高めていったのです。まさしく江戸時代初期は、築城技術のピークだと言っても過言ではありません。

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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