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【やさしい歴史用語解説】「改易」

 「改易」という言葉には2つの意味があります。ひとつは罪を得て官職や身分を取り上げること。そしてもうひとつは、武士に対する刑罰として行われました。大名や旗本の領地を没収することで、いわゆる「お家取り潰し」という意味になります。通常「改易」といえば後者を指し、主に江戸時代における大名統制の一環として制度化されました。

 関ヶ原の戦い(1600)が終わったのち、徳川家康は功績のあった大名たちに領地を大盤振る舞いしています。これは領地をたくさん与えることで、大名たちを徳川家に帰服させる狙いがありました。この時、西軍に味方した多くの大名が改易となったのは言うまでもありません。

 ところが領地をたくさん持つということは、そのぶん経済力や軍事力を手にできます。そこで江戸幕府が次に乗り出したのが強力な大名統制でした。「武家諸法度」や「一国一城令」といった法令を打ち出し、これに違反した大名を厳罰に処す方針に切り替えたのです。

 もちろん法令を遵守しなかった大名に対しては、情け容赦なく処分が下されました。特に初代将軍・家康から3代将軍・家光に至るまでの期間に、外様大名175家・譜代大名49家が改易の憂き目に遭いました。また、没収された領地は1847万石といいますから、途方もない数の大名が処罰されたわけですね。

 たしかに城の無断修築や乱暴狼藉、あるいは職務怠慢による改易はあったものの、もっとも多かった理由が無嗣断絶というものでした。いわゆる跡継ぎがいなくて家が存続できなくなったパターンです。

 当時、家督相続のハードルはかなり厳しく、男子がいない場合の多くが改易となりました。事前に兄弟もしくは親族を養子とし、幕府へ届け出れば問題はないのですが、当時の武家社会では直系の男子が家督を継ぐのが当たり前とされていました。藩主が健在なのに養子を迎えるのは考えられないことだったのです。

 無嗣断絶によって取り潰された藩が続出し、多くの藩士が浪人となりました。やがて仕官を求めた浪人たちが江戸や大坂であふれ返るようになり、大きな社会不安を引き起こしています。そんな中、幕府に大きな衝撃を与えたのが慶安4年(1651)に起きた慶安の変でした。軍学者・由井正雪ら政治に不満を抱く者たちが幕府転覆を狙い、反乱計画を練り上げていたのです。

 さらに万治3年(1660)には佐倉藩主・堀田正信が「悪しき幕府政治によって旗本・御家人が窮乏している。自らの領地を返上して救済したい」として、幕政を大っぴらに批判しました。

 こうした一連の事件により、幕府の政策は文治政治へと転換していきます。そして改易の最大理由となった無嗣断絶についても大幅な緩和が図られました。従来は届け出なしに養子を認めていなかったのですが、現藩主が急病・危篤に陥った場合、50歳以下の者に限って養子にすることを認めたのです。

 こうして無嗣断絶による改易は激減したのですが、改易そのものがなくなったわけではありません。幕末に至るまで、なお多くの大名が取り潰しとなっています。

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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