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古代のスーパーは超ビッグ

文明発祥と同時にあった市場

紀元前753年に建国された古代ローマ、1200年もの長きに渡って繁栄をしました。しかし、476年に西ローマ皇帝が廃位したことがきっかけとなり、滅んでしまいます。そんな古代ローマの中でも、最盛期とされているのが紀元前1世紀から紀元後3世紀。世界史上、今後に登場してくる都市国家の基本となりました。

そして、文明発祥のころから存在が認められている市場は世界中で見られます。人類は市場に集まり、売買を行ってきました。モノと人でいっぱいになっていた市場は、活気みなぎる場所となり、いつの時代も魅力に溢れていたことでしょう。

古代の市場は一大ショッピングモール

古代ギリシャや古代ローマの時代の都市には、続々と様々な物資が周囲の農村や地中海沿岸から入ってきました。そして、ごく自然にそれらの物資を商う市場が開かれるようになったのです。

たいていの場合、市場は都市で一番中心となる公共の広場や周囲のバジリカ(公会堂)で開かれました。政治集会や裁判が開催される場所とも重なることから、政治と結びついて発展したのでしょう。

古代の市場で特に有名なのが、レンガで建てられた6階建ての建物が、壮大なトラヤヌス市場です。ローマに行けば、現在でも遺構を見ることができます。

1階では野菜や果物の店舗が連なり、吹き抜けがある列柱廊とアーケードを持つ2階には、ワインやオリーブオイルが貯蔵された巨大なドームがありました。そして、3階と4階ではコショウなどの香辛料が所狭しと販売され、5階と最上階には魚市場があったそうです。魚などの魚介が泳ぐ水槽には、水道橋から絶えず真水と海水が流れ込んでいたのです。6階建の巨大な建物に、150もの店舗がひしめくようにして建ち並んでいたトラヤヌス市場、まさに世界最古のショッピングセンターでした。

平安時代の市場

さて、日本の市場はどんな感じだったのでしょう。都のあった京都では、今から1200年前くらいから登場します。当時は「東西市」と呼ばれ、都の東西に1ケ所ずと設けられていました。400年間に渡って続いてはいましたが、内容は古代ローマのような活気のある市場ではなく、かなりのんびりとしていたようです。

東西の両市場に隣接して、「市司(いちつかさ)」という名の役所が置かれていました。ここでは、財貨の交易・器物の真偽・度量の計量・売買価格などを取り締まっていたそうです。平安の世から、商品や金銭の管理がしっかりと行われていました。

現在、中央卸売市場で守られている業務規定は、この東西市で厳守されていた「関市令」の内容を汲みとっているもの。なんと奈良時代から脈々と変わらぬ内容で運営されているというのに驚きです。

鎌倉時代の市場

鎌倉時代になると、市場も様々な騒乱に巻き込まれ、「東西市」は名ばかりの市場になってしまいました。そこでこの時代の商工業者は、「座」とよばれる同業者の組合を結成します。「座」では、組合員の制限や地域を指定し、営業上の特権を得ていたとされています。

「座」というのは、物をすえ置く場所という意味で「売場」のことを表しています。この「座」に属する商人は人数制限が設けられ、区域内で取り扱う物品においては、他の商人の取り扱いを許しません。いわば、「座」に属する商人の独占販売になっていたのです。そのため、「座」に属せない商人の商売は、とても苦しいものになっていました。

室町時代の市場

時代は鎌倉から室町に移りますが、市場の状況は鎌倉時代の延長でした。室町幕府が起こり、京洛の地は繁栄を極め市街地も北へ発展します。京都の中心部は上下の2京となり、上京には上立売・中立売・下立売の3市場が誕生します。そして下京では、四条立売の市場も許可されます。

これで市場も発展するかと思いきや、財政窮乏となった幕府が悪政をしき、そのために各地で暴動が発生。上下市場とも、とんでもなく荒廃してしまうことになってしまったのです。しかし当時の商人たちが粘り強く復興を目指した結果、「座」の権益を回復して一時は持ち直したのですが、応仁の乱によって京都は廃墟となってしまいます。

戦国時代の市場

織田信長が日本統一を目指した時代、商人が持つ勢力を打破するため、鎌倉時代から続く「座」を廃止します。そして、誰でも自由に商売ができる「楽市」や「楽座」という自由市場を設けたのです。信長亡き後の秀吉も「座」を押さえ、自由商業を広めることに力を注ぎます。

大阪や京都の商工業の興隆を推進した結果、後の世に登場する、魚市場・塩干魚市場・青物市場などの基本が現われ始めたのでした。この秀吉の努力は、京都における食品市場の始まりとして実を結んでいます。

江戸時代の市場

もともとの市場は、朝市などに代表される物々交換ができる場でした。これを制度化したものが、今日の市場になっているのです。徳川家康が江戸幕府を開いた際に手がけたのが、江戸城内で働く人たちの食事を用意する制度。大坂の佃村から漁師たちを江戸に呼び寄せ、獲れた魚を幕府に納めさせたのでした。

幕府へ納めた後の残った魚は、漁師たちが日本橋のたもとで売るようになり、これが魚河岸(魚市場)となり、現在の東京都にある市場の始まりとなったのです。そしてほぼ同じ頃、青果市場も自然発生的に数ヶ所で誕生し、現在の神田周辺となる八辻ヶ原で始まった青果市場を中心に発展したのです。

江戸から現在に

豊臣秀吉が形づくりをした市場が、江戸時代に一気に花開き、古代ローマのような活気ある市場を誕生させました。享保6年(1721年)には100万年となった江戸市中。それだけの人の胃袋を満たせるほどの食材が、市場に集まってきたのです。そして現在の中央卸売市場の原型を作り上げ、現在1400万人弱の東京の人々が食べる食材を日々確保しているのです。

食が不足すれば人は生きていけません。それ故に市場の存在はその地に暮らす住民の皆さんの生活に密着する必要不可欠な存在なのです。少し前に起こった東京豊洲市場の移転問題のように、市場の存在が政治利用されるようなことは、絶対に阻止しなければなりません。鎌倉や室町時代のような過ちを犯してはならないのです。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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日月
とても興味深い内容でした。そんなに昔から「市」ってあったんですね。
そういえば楽天の社名は「楽市楽座」からとったとか。
かたちをネットに移しても、人がいるところには「市」がたつのかもしれません。
2022/09/21 11:31