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明治維新の陰謀説 孝明天皇暗殺説と明治天皇すり替え説を検証する

フルベッキ群像写真(出典:wikipedia)
フルベッキ群像写真(出典:wikipedia)

はじめに

 明治維新は薩長連合が徳川幕府を打破することによって行われたものであることはご存じでしょう。そして日本では天皇陛下のご意思が重要であることもご存じかと思います。戦国時代以前から日本を支配するには京都に行き、朝廷の認可を得て始めて「正式な支配権」が得られたのです。

 この観点から明治維新を見た場合、1つの問題がありました。それは当時の朝廷であった孝明天皇は「公武合体による現状維持派」であり、薩摩藩、長州藩、岩倉具視などの改革派を嫌っていたのです。第二次長州征伐の勅命は孝明天皇から出されていることからも、それが分かります。

 その孝明天皇が慶応2年(1867)、35歳で崩御し、明治天皇が即位してから明治維新は急速に進み始めます。この「あまりにもタイミングが良すぎる」崩御に、当時から孝明天皇暗殺説は密かに囁かれていたようです。

 一方、孝明天皇の後を継いだ明治天皇は、まだ14歳という若年でした。当時は16歳で元服して一人前の大人とされたので明治天皇の正式な即位は元服が済んでから、ということで皇位継承はしたものの即位の礼は孝明天皇崩御から2年経った慶応4年まで待ってから行った、という経緯があります。つまり正式に天皇位に就いたのは16歳の時だった訳です。

 天皇位に就いた明治天皇は「王政復古の大号令」を発し明治政府の樹立を宣言します。また五箇条の御誓文を発布し、明治政府の在り方を規定し、政体書により政治制度の在り方についても規定しています。

 ちょっと考えると「16歳の少年にしては凄すぎないか?」という疑問が湧きます。当然ながら、これらの宣言や規定は岩倉具視らの側近ブレーンにより行われたもので、明治天皇自らが発案実行したものではないでしょう。ですが一部の人達には、こういった宣言や規定は明治天皇自らが発案実行したものと写ってしまったようです。

 また、14歳で皇位継承した時と、16歳で即位の礼を行った時を比べると、身長も伸びて体つきも一回り大きくなっており、これらについても「いくら成長期だとはいえ、違い過ぎないか?」という疑問を持った人もいたようです。

 そこから「明治天皇すり替え説」というものが生まれました。要は「明治維新を前に進めるために孝明天皇を暗殺し、跡継ぎの明治天皇も即位前に暗殺し、維新遂行に都合の良い人物にすり替えた」という説です。

 孝明天皇暗殺説はともかく、明治天皇すり替えはないだろう、と誰しもが思いますが、これらの陰謀説は案外に根強く囁かれているのです。そこで、これらの陰謀説を検証してみたいと思います。

孝明天皇の死因は何なのか?

 まずは孝明天皇暗殺説から見てみましょう。孝明天皇の死を出来るだけ史実に沿ってご紹介します。

 慶応2年1月17日、孝明天皇は発熱を起こしました。主治医の投薬治療を受けても好転せず、状態はどんどん悪化していきます。典薬寮医師と呼ばれる数人の医師達が総動員され、24時間体制で治療に当たりましたが状況は好転しません。そして4日が過ぎ、主治医は当時「痘瘡」と言われていた天然痘に罹患した可能性に気づいた、とされています。

 天然痘は発熱開始から3~4日目に一旦、解熱し体に「丘疹」と呼ばれる皮膚の隆起が発生するので、それが起こったとすれば辻褄が合う話です。そこで痘瘡について治療経験のある医師が呼ばれたそうです。

 典薬寮医師チームは「御容態書」という病状を記録しておく日誌を付けていましたが、それには、それから数日間は「御順症」と記されており、落ち着いた状況が続いていたことが記されています。

 しかし典薬寮医師の一人である伊良子光順の1月25日の日記には「天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された」と記されています。

 天然痘にかかった場合、発熱してから7~9日目が山場で、ここで急激な高熱が起こります。ここを持ちこたえられれば回復に向かいますが、持ちこたえられないと体内に発生した丘疹が肺を圧迫し呼吸不全に陥り、死亡してしまいます。

 逆に言うと3~4日目に一旦、解熱し体に丘疹が出た段階から7~9日目の山場までは落ち着いた状態が続きますので「御順症」でも不思議はない訳です。そして天然痘の致死率は最大で50%くらいですので亡くなられたことも不思議ではありません。

 当時、天然痘は日本では痘瘡と呼ばれ、誰でも普通にかかってしまう感染病で珍しい病気ではありませんでした。そして残された「御容態書」を見る限り通常の天然痘の進行状況と一致しており、何ら不審な点は見られません。

 ですが、それは天然痘という病気の進行症状を知っている場合の話であり、知らなければ「落ち着いていたのに急変して亡くなられた」と捉えられてもおかしくはありません。また、典薬寮医師チームの一人、中山忠能の日記には「御九穴より御脱血」と大出血を思わせる記述がありますが、天然痘でこのような出血が起きるのかどうかは、はっきりとは分かりません。

 これらの記述が「毒殺説」を生む原因となったようです。しかし明治維新から昭和の太平洋戦争終結時までは天皇は「現人神」であり、天皇家のスキャンダル話はご法度とされていたので毒殺説が公に問われることはありませんでした。

戦後になって始まった毒殺論議

 戦後、皇室の歴史上の問題に触れることがタブーではなくなってから孝明天皇暗殺説が、あちこちで提唱され始めました。しかしどれも確たる証拠はなく、人物的、あるいは時間的に辻褄の合わない説ばかりでした。

 ちなみに孝明天皇の後を継いだ明治天皇は、孝明天皇の崩御時点で、まだ14歳で政治的な思惑を持てる年齢とは言えません。ですので、岩倉具視を筆頭とする薩長連合の中の誰かが犯人にされることがほとんどでしたが、伊藤博文暗殺で知られる安重根が暗殺理由として「彼が孝明天皇を殺したから」と言っており、更に「韓国民なら、みんな知っていることだ」と語ったそうです。やはり「あまりのタイミングの良さ」に疑惑を抱く人は多数いたということを表す一例でしょう。

 罹患した病気が天然痘であり発症以来、典薬寮医師チームに24時間、看護されていた状況では毒殺をするとしたら医療チーム内の人しか可能性はなさそうですが、医療チームの中に動機がありそうな人は見当たりません。そもそも天然痘の死亡率は高いので、その病気に罹患している人物を、わざわざ暗殺しようとする人はいないように思えます。放っておいても死んでしまう可能性は高いのですから。

 結論から言うと、孝明天皇暗殺説はこれといった根拠が見当たらないのです。

明治天皇すり替え説

 相当に大胆な説ですが、皇位継承時点で14歳という少年であったことから可能性がある、とされてきた説です。この説が現われてきたのは、主に以下の2つが根拠となっているようです。

1、皇位継承した14歳の時と、即位の礼を行った16歳の時とでの体つきが全然違う。
 残念ですが明治天皇の14歳と16歳の時の写真は残されていません。ですので、これはあくまで「見た人の感想」としか言えないので検証は出来ません。

2、フルベッキ集合写真に明治天皇と同じ人物が映っている。フルベッキ集合写真は長崎で撮影されたもので明治天皇が写っているはずがない。
 フルベッキ集合写真とはオランダの宣教師であるグイド・フルベッキが佐賀藩で開いていた「致遠館」という英語塾に岩倉具視の子供である岩倉具定、岩倉具経の二人が入学した時に撮影した記念写真のことです。以下がその現物です。

フルベッキ群像写真(出典:wikipedia)
フルベッキ群像写真(出典:wikipedia)

 写っているのはフルベッキと、当時、致遠館にいた生徒達です。現在でも修学旅行の時に学校で先生と生徒が揃った写真を撮るのは良くあることですよね。問題とされた人物は中央にいるフルベッキの子供、エマの前にいる人物です。

 明治天皇は「写真嫌い」で有名で、あまり写真が残されていません。この「写真嫌いであった」ということ自体も「すり替え説」の傍証である、という人もいます。

 とはいえ、さすがに全く残されていない訳ではありません。19歳と22歳の時の写真は残されていますので、問題の人物をクローズアップして比べてみましょう。

 フルベッキ集合写真は非常に綺麗に撮影されているので、これまでに幾度となく古物商らにより人物名が付けられた「額縁入り写真」が出回っています。あえて、その「名前入りの写真」から比較できるように以下トリミングしてみました。ちなみに付けられている名前は、ほとんどが、いい加減なものですので、この名前もどれくらい信用して良いのかは分かりません。

※明治天皇と大室寅之助の比較写真(出典:wikipedia)
※明治天皇と大室寅之助の比較写真(出典:wikipedia)

 なるほど。似ているような気がします。皆さんはどう思われるでしょうか?

 この「大室寅之助」という人物。一説によると南朝天皇家の直系の子孫に当たる人物だということですが、正確なことは分かりません。

 ちょっと考えると皇室や側近貴族には明治天皇を見知っている人達が沢山いるのだから、すり替わったりしたら、すぐに気づかれてしまうだろう、と思われます。

 しかし「すり替え説」を主張する人達は、孝明天皇が保守的で明治維新反対派であったことから、愛想をつかしていた貴族や側近が多数おり、その人達にとって「すり替え」は都合の良いことであり、一応、南朝天皇家の直系の子孫でもあるので黙認した、としています。

 確かに動乱期に16歳の天皇では危なっかしいと思われても仕方ないかもしれません。そこで「確実に維新を進めるために」すり替えが行われたというのは「全く有り得ない」と否定する根拠はないのです。もちろん肯定する根拠もありませんが…。

 また「天皇陛下や皇室一族に謁見する」という機会は貴族であっても「滅多にあることではなかった」というのは事実のようですので、並みの貴族連中には気が付くはずもなかった、という解釈は成立しそうです。

 つまり、仮に「すり替わった」としても気が付ける人達は予想以上に少なかったようなのです。まして孝明天皇存命時に、後の明治天皇となる少年を良く見知っている人達は極めて限られていたのは事実です。その「限られた人」の中に、後に元老となる西園寺公望がいます。

 西園寺は明治天皇の学習院時代の学友であり友人でもあったのです。その西園寺が何も言っていない、という事実は私の中では結構、重大な事実で、私自身は「西園寺公望が何も言っていない」ことを持って、この説に対しては否定的な立場です。西園寺公望は有力な貴族であり天皇陛下に謁見した可能性が高いと思われるからです。

フルベッキ集合写真の額縁入り版

 せっかくですので額縁入りの方もお見せしましょう。全て名前が入れられています。しかも「驚くべき名前」が。

※名前入りのフルベッキ集合写真。名前は古物商が適当にいれたものと思われる(出典:wikipedia)
※名前入りのフルベッキ集合写真。名前は古物商が適当にいれたものと思われる(出典:wikipedia)

 フルベッキ集合写真はあまりにも綺麗なので、つい、「維新の志士」の名前を入れたくなるようですね。古物商としては有名人が写っている方が「価値がありそう」に思えますから。でもいくら何でも「坂本龍馬」は無いでしょう。この写真が撮影されたと推定される慶応後期から明治元年には、もう坂本龍馬は生きていないのですから。

 フルベッキ集合写真は、あくまで致遠館の先生と生徒を撮影したもので、このような有名人はいませんでした。ですので「大室寅之助」というのも本名かどうか分かりません。しかし問題の「大室寅之助」は歴史上には全く登場しない人物であり、どこから持ってきた名前なのかも分かりません。

 ただ、この写真に写っている「大室寅之助」の弟の孫と称する大室近佑(おおむろ・ちかすけ)という人物が1999年まで存命しており、存命中に「わしの大叔父は明治天皇じゃ」と主張していたのは事実だそうです。その辺りから、すり替え説が発生したのではないかとも考えられます。

 検証してみますと、孝明天皇暗殺説はあまりにも根拠が乏しく、ちょっと受け入れがたい感じがします。明治天皇すり替え説も明確な証拠はなく、あるのは一枚の写真だけですが、こちらの方も西園寺公望が気が付かない訳がない、という思いから否定的ではあります。

 ただ、元老になる前の明治時代の西園寺公望がどの程度、明治天皇に謁見する機会があったのかは正直分かりません。ですので「確たる理由」にはなり得ない、とも考えます。

 陰謀説というのは良く出来ており、このように否定も肯定も出来ないのです。むしろ「否定も肯定も出来ない」から現在まで陰謀説として続いているのでしょう。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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山田太郎
いまだに、この話題でフルベッキ群像写真が使われることに呆れています。
フルベッキ群像写真は研究が進み、様々な物証から幕末志士でないことは証明済みです。この写真に写っているのは、フルベッキ親子、佐賀藩校の教師と学生です。長州の大室なる者はいません。
長崎で撮影された時期も特定可能で、明治天皇はすでに即位済みで東京にいます。坂本龍馬は一年前に死亡しているので、両名は写真の中にはいません。
2023/07/18 03:27