※ この記事はユーザー投稿です

武田信義の嫡男・一条忠頼ゆかりのスポットめぐり

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将であり甲斐源氏の棟梁であった武田信義は、戦国時代の武田信玄にもつながる人物で甲斐武田氏の祖とも称されている。

 その嫡男である一条忠頼は、父信義の挙兵に従って甲斐源氏の勢力を拡大、平氏からの軍を富士川の戦いで撃破し、駿河・遠江を制圧。その後、木曽義仲追討で活躍するなど戦果を上げるも、鎌倉での酒宴で源頼朝の命を受けた天野遠景によって殺害された。

 一条忠頼が“一条氏”を名乗ったのは一条郷(山梨県甲府市)を領したことによるもので、一条忠頼の館は、のちに甲府城が築城されることになる一条小山にあったとされる。

 現在、甲府駅のすぐ隣にある甲府城跡は、舞鶴城公園となっており、天守台に上ると、甲府駅の線路から甲府盆地の街並み、遠くには富士山までぐるりと360°見渡せ、まさに小高い山を生かした城であることが感じられる。

※甲府城跡天守台からの眺め(北側)
※甲府城跡天守台からの眺め(北側)

 頼朝に謀殺された一条忠頼の夫人が、居館を仏堂に改めて菩提を弔ったことを端緒とするのが一蓮寺だ。一条小山の中腹にあったとされる一蓮寺の歴史は、1184(元暦元)年6月16日に鎌倉幕府(源頼朝)に呼び出された忠頼が「世を濫らんとの志」(『吾妻鏡』)在りとの事由により誅殺されたことに始まると寺のホームページに記されている。その発祥のいわれに従って、一蓮寺は一定の宗門に属することなく、130年弱、尼寺として存続したという。

 武田氏の寺として篤い庇護を受けて流麗な姿を呈していたが、1582(天正10)年の武田氏滅亡を期に現在の場所に遷寺。それは、1583(天正11)年に徳川家康によって築城が着手され、工事が中断して豊臣大名の羽柴、加藤、浅野氏に引き継がれたとされる甲府城の成り立ちとも大きくかかわっている。一蓮寺のホームページには、築城に伴って遷寺が必要になった時期の記録についても掲載されており、歴史との深い関わりが興味深く感じられる。

 また、この一蓮寺に隣接するのは、明治政府による神仏分離令により正ノ木稲荷社が分離した稲積神社。植木市で知られ「正ノ木さん」として親しまれている正ノ木祭で有名な神社でもある。


 一方、一条忠頼の墓と刻まれた石塔が山梨県の富士川町の明楽寺跡地に残っている。町指定文化財の看板の解説に「甲斐源氏の一条次郎忠頼はつき(※舂の異体字)米明楽寺の開基。(元歴1)1184年、源頼朝によって鎌倉で謀殺された。忠頼の所領はこの大井荘南条にも及び、現宝林寺がその屋敷跡だったという」と記されており、富士川町のホームページには「一説に一条氏前衛基地の一つとして川久保城の置かれたところとされています」とある。

【参考サイト】
一蓮寺ホームページ
http://www.ichirenji.jp/

富士川町ホームページ
https://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/kanko/meisho/bunkazai.html

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
編集者・ライター

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。