使特需ももたらした異国からの使者、朝鮮通信使

江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描いた『朝鮮通信使来朝図』(羽川藤永筆、神戸市立博物館収蔵。出典:wikipedia)
江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描いた『朝鮮通信使来朝図』(羽川藤永筆、神戸市立博物館収蔵。出典:wikipedia)
異国からはるばる海を渡ってやって来た王様のお使い朝鮮通信使、物珍しく煌びやかな行列は沿道の人々の良い見ものでした。

始まりは室町時代

朝鮮通信使とは、李氏朝鮮の国王が日本国王、つまり日本の外交主権者と国書を交わすために遣わした使者です。永和元年(1375)に足利義満が日本国王使を派遣したのが始まりです。

室町幕府と朝鮮の間で続けられ、豊臣秀吉もこれを継承しましたが、秀吉の朝鮮出兵により両国の国交は失われ、当然使者の往来も途絶えました。

江戸幕府が開かれると、日本側から李氏朝鮮に国交の回復と通信使の再開を打診します。室町時代末期になると、力の衰えた幕府を尻目に諸大名が日朝・日明貿易の実権を握るようになり、それが一層室町幕府の威信低下を招きました。

同じ轍を踏むことを危ぶんだ江戸幕府には、地理的優位にある西国大名に先駆けて朝鮮との関係を深めて置く必要がありました。

朝鮮側の都合

一方、李氏朝鮮も日本との関係改善を望んでいました。文禄・慶長の役で大勢の朝鮮人が捕虜となり、日本へ連れ去られてしまいます。

これらの人々の返還を求めるにしても、まず話し合いのルートを造らねばなりません。朝鮮を背後から助けてくれた明が撤退し、後支えが無くなった今、日本とは友好関係を結んでおきたいし出来れば交易も再開したい…。両国の国交回復の思惑が一致し使節団の再開が図られます。

対馬藩が窓口となり慶長12年(1607)5月、江戸で徳川秀忠が通信使を迎え、国書を受け取ります。この時の使節団を正式には『回答兼刷環使(かいとうさっかんし)』と言い、「回答」とは日本からの国書に返答するの意味、「刷環」とは日本に捕らわれている朝鮮人捕虜を送還するの意味です。

この再開朝鮮通信使の来日により、日朝の国交は回復し、捕虜1000人以上が返還され、通信使は帰路駿府に寄って家康に謁見するなど来日は成功しました。

通信使一行の江戸までのルート

朝鮮を出発する時の使節団は、正使と副使に旗手や料理人・馬の世話係・銃手・贈物係から画家・水夫まで400人から500人と結構な人数でした。これが日本に入ると日本人の警護役人や荷物運びの人足が加わり、江戸に到着する頃には1500人以上の行列に膨れ上がります。

『正徳元年朝鮮通信使参着帰路行列図巻』(出典:ColBase)
『正徳元年朝鮮通信使参着帰路行列図巻』(出典:ColBase)

通信使の歩んだルートは以下のものです。

朝鮮の首都漢城(ソウル)を出発し、陸路で釜山まで、釜山からは6隻ほどの船に分乗し、対馬や壱岐に立ち寄り、関門海峡を通って瀬戸内海に入ります。鞆の浦や牛窓に寄港しながら大坂湾に入港、ここで川御座船に乗り換えて淀川を遡上、京都の淀で上陸して中山道を進みますが、近江から中山道を外れ脇街道の彦根道を通るのが通例になっていました。

この街道は徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した後に、凱旋上洛する時に使った道で、徳川幕府にとって特別な道です。将軍以外の行列の通行は禁止されており、参勤交代の大名たちも使えませんでした。なぜ通信使一行は使う事が出来たのか? 琵琶湖沿いの風光明媚な景色を見せて、日本はこれほど美しい国だと思わせたかったから、と言いますがどうでしょうか。

彦根道を進んだ一行は近江八幡・安土・彦根を経由して中山道に戻り、美濃・尾張から東海道へ入り、江戸を目指します。

通信使一行のお世話

朝鮮と江戸の往復は9ヶ月から11ヶ月もかかる長旅でした。世話係りとして活躍したのは常に朝鮮との窓口となって来た対馬藩ですが、本土を通る時に食事や宿舎を提供するのは道中の各領地を治める大名家です。

大抵の日本人は朝鮮人の食事の好みなど知りませんから、対馬藩は道中の世話をする各藩に対し、『朝鮮人好物之覚(このむもののおぼえ)』と言う覚え書きを作って配りました。これには牛・猪・鹿などの獣肉は差支えが無く、大根や牛蒡も食べるが、塩魚や川魚は好まないなどこまごまとした注意が書かれています。

日本滞在中の交通費や饗応費はすべて日本持ちで、その額は50万両とも100万両とも言われる贅沢なものです。初期の通信使に対する幕府の対応も極めて丁重なもので、通信使が江戸での宿に落ち着くとまず老中が自ら出向いて歓迎の挨拶をします。また通信使を招いた宴席では将軍が直々に酒や料理を勧め、御三家も列席しました。これらは天皇からの勅使を迎える時と同じ作法です。

次第に変わって来る幕府の態度

通信使の来訪は次第に儀礼化して行き、将軍の代替わりや世継ぎの誕生の際の祝賀使節となります。そして迎える日本側の態度も変化して行きます。通信使を朝鮮から江戸への参勤と称し、朝鮮側を下に見るようになり、家康を神として祀っている日光東照宮への参拝を強要したりします。

このような幕府の態度に両国関係は悪化。加えて送り出す側にも迎える側にも巨額の費用が大きくのしかかり、文化8年(1811)、徳川家斉の将軍職就任を最後に通信使の制度は廃止されます。

その後も徳川家慶将軍職就任の際などに通信使復活を探る動きがみられましたが、結局具体的な計画にまで至らないまま見送られました。しかし国交が途絶えたわけではないので、相手国への漂着民の帰国などは互いに送還する体制が維持されます。

通信使特需

通信使一行の世話を仰せつかった大名たちは、他の藩に負けないようにと金を惜しまなかったようです。前回の饗応の記録を書き残し、次回の参考にしました。塩漬けの鹿肉を用意したり、川を渡るのに船を新調したり、天竜川を渡る時には船橋が特別に架けられました。

沿道の村々では鶴や雉の肉・卵などが買い集められ、その代金は村人の懐を潤します。またこの際と言うのでしょう、橋を架け直したり街道を整備したりとインフラが整えられ、その恩恵は住民に及びます。娯楽の少ない時代、銅鑼や太鼓を打ち鳴らし異国の煌びやかな衣装で進む行列は庶民の大きな楽しみでした。

再開通信使はおよそ200年の間に12回日本を訪れています。

おわりに

2017年10月31日、朝鮮通信使の記録物111件が、日韓友好の歴史の証として日韓民間組織の共同申請により、ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。


【主な参考文献】
  • 仲尾宏『朝鮮通信使の足跡』(明石書店、2011年)
  • 山本博文『参勤交代の不思議と謎』(実業之日本社、2017年)
  • 永井博『参勤交代と大名行列』(洋泉社、2012年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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