「信長軍団=兵農分離で戦国最強」は事実なのか? 最新研究が示す“意外な真相”
- 2026/02/20
渡邊大門
:歴史学者
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日本史の一般用語としてよく知られている「兵農分離」。用語事典の解説では、戦国時代から江戸初期にかけて行われた武士と農民の身分的分離政策、というように書かれている。本記事ではこの政策が登場した背景・過程、そして政策実施による影響などを見ていく。
信長軍団が「戦国最強」だったのは事実なのか?
織田信長の軍団は「戦国最強」と語られることが多い。その理由として、しばしば挙げられるのが「兵農分離」を実現し、専門的な軍事集団を組織したからだ、という説明である。しかし、信長が本当に兵農分離を実行したという明確な根拠は、史料上、必ずしもはっきりしていない。果たして信長は、後世で語られるほど徹底した兵農分離を行っていたのだろうか。
「兵農分離」とは何か
信長は兵農分離の先駆者であり、それを梃子に強力な軍隊を生み出し、天下獲りの基礎を築いた――このような評価は広く知られている。兵農分離とは、武士の在地性を否定し、城下町に集住させることで、武士と土地との結びつきを断ち切る政策を指す。だが、この見解については、現在も研究者の間で議論が続いている。
中世社会においては、兵と農の身分は明確に分けられていなかった。多くの武士は村落に住み、自ら農作業に従事しながら、合戦が起これば出陣する存在だった。いわば「兵農未分離」の状態だったのである。
そのため、近世の城下町のように、すべての家臣が必ず城下に集住していたわけではない。その点には、注意を払うべきだろう。
太閤検地と兵農分離の完成
天正十年(一五八二)、羽柴(豊臣)秀吉が信長の後継者となると、最初に着手した大事業が太閤検地であった。検地とは農民支配と年貢徴収を目的とした土地の測量であり、教科書でもおなじみの政策である。太閤検地では、①兵と農を分離し、兵は農業に従事しない、②武士は村落から離れ、城下町に集住する、という兵農分離策が本格的に推し進められた。
さらに刀狩りによって、農民は兵士としての性格を失い、身分秩序が固定化されていく。ただし、この兵農分離は一気に完成したわけではなく、江戸時代を通じて徐々に定着していったものである。
信長が兵農分離を行ったとされる根拠
信長が兵農分離を行ったとされる根拠として、よく挙げられるのが『信長公記』天正六年(一五七八)一月二十九日の記事である。信長は天正四年(一五七六)から安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始し、三年後の天正七年(一五七九)に完成させた。その過程で、配下の者たちを徐々に城下へ住まわせていたとみられる。
天正六年一月、安土城下に住んでいた弓衆・福田与一の家が失火する事件が起こった。当時、与一は一人で暮らしており、信長はその点を問題視した。家族がいれば火災の被害を抑えることができたはずだ、と考えたのであろう。
調査の結果、百二十人にも及ぶ馬廻衆・弓衆が、尾張に家族を残したまま、いわば「単身赴任」の状態で安土に詰めていたことが判明した。
家臣の家を焼いた信長の強硬策
信長はこのことを知って激怒し、尾張支配を任せていた長男・信忠に命じて、彼らの尾張国内の家を焼き払わせたのである。こうして家を失った馬廻衆・弓衆の家族は、否応なく安土城下へ移住することになったのである。政策的というよりも、信長を恐れてということになろう。
この事例から、信長は家臣を城下に集住させ、兵農分離をすでに実行していたのではないか、と指摘されてきた。近世になると、城下町に武士を住まわせ、身分に応じて居住区を定めることが一般化するが、その先駆けを信長が成し遂げた、という評価である。
しかも、その兆候は安土城以前から見られるという。
城下集住の実態を示す事例
信長配下の兼松氏は、天正四年に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。兼松氏は尾張国葉栗郡島村を本拠とする武将で、本来の所領は尾張国内にあった。武士と土地が分離しがたい関係にあった当時の常識から考えると、これは安土城下への集住、すなわち兵農分離の第一歩とみなされてきた。近江国内に所領を与えたのは、城下への移住を促すためだった、という解釈である。
また、考古学的調査によれば、信長が永禄六年(一五六三)から四年にわたり居城とした小牧山城(愛知県小牧市)には、武家屋敷跡が確認されている。
永禄十年(一五六七)から使用された稲葉山城(岐阜城/岐阜市)の麓にも、信長の居館と、その周囲に重臣たちの館があったとされる。
これらの事例から、信長が早い段階から城下集住を意識していたことは確かだろう。
それでも「兵農分離が完成した」とは言えない理由
信長が槍や鉄砲を効果的に用いた戦術を展開したため、配下の兵士は専門的な軍事訓練を受けていたと考えられてきた。特に鉄砲のような新兵器は、訓練なしに実戦投入するのが難しいからである。しかし、これらの事例だけで、信長が政策として兵農分離を実施したと断定するのは難しい、という慎重な見解もある。当時、戦国大名の直臣である馬廻衆などが城下町に居住すること自体は、決して珍しいことではなかったからだ。
政策として家臣全体を城下に住まわせ、農業から切り離した「兵農分離」と、信長の個別事例を同列に扱うべきではない、という指摘は重要である。
信長軍団は「兵農分離」で強くなったのか
現時点では、信長が城下町に家臣を集住させたことは確認できるものの、兵農分離を制度として完成させたという明確な根拠は存在しない。まだまだ再検討の余地があるといえよう。したがって、「信長は兵農分離によって戦国最強の軍団を築き上げた」という通説は、慎重に見直す必要があるだろう。信長軍団の強さは、必ずしも制度の完成度ではなく、柔軟な発想と実戦的な指揮にあったのかもしれない。
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