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1960年代に巻き起こった切手ブームと困った遺産
- 2023/07/10
切手ブームと言っても勘違いしてはいけません。決して、切手を収集することが趣味として流行ったということではありません。実は「新しく発行される切手を買っておけば、後で値上がりして儲かる」という投機ブームだったのです。
一体、なぜ、こんなことが起こってしまったのかを振り返ってみましょう。そして、この「遺された遺産」をどうすれば良いのか、も考えてみたいと思います。
ブームの発端
子供の頃に切手集めをしたことがある方は案外に多いと思います。しかし、子供のお小遣いでは買えない高い切手が存在したことも覚えておられるでしょう。例えば、以下のような切手です。今から60年前、切手商の店頭では月に雁は3万円、見返り美人は1万5千円、ビードロ、写楽は3000円、蒲原は3000円、桑名は2000円くらいしていました。どの切手も発行年は1960年以前で、いずれも江戸時代の浮世絵を題材した切手であり、とても絵が綺麗だったので人気が高くなりました。特に「文通週間の蒲原」が切手ブームに火を付けたと言って良いでしょう。
蒲原が発行された時、郵便局では1シート(20枚)が600円で買えました。それがしばらくすると切手商で1枚、3000円で売られるようになります。当然、買取価格も高く、一枚1500円以上で売れました。こうした背景から、それを知った人達は「買っておけば良かった」と後悔したワケです。
切手商は「切手商組合」という団体を作っており、毎年、そこから切手カタログが発行されていました。そして、これらの切手は年を追うごとに値段が上がっていき蒲原も一時は5000円くらいまで値段が上がりました。こういった「一部の切手の高騰」が切手ブームが起こるきっかけとなったのです。
切手商組合のカタログは今でも発行されていますが、記念切手で額面以下の価格が付けられているものは1つもありません。月に雁や蒲原ほどの値段ではないにしろ、額面の数倍の価格が付けられています。
もちろん、これは「切手商の売値」で買値ではありません。しかしこれを見た多くの人々が「記念切手を発行時に買っておけば儲かる」と思い込んでしまいました。そして1960年代の中ごろから新しい記念切手の発売日には郵便局に買う人が列を作って並ぶようになったのです。
まるで切手を株のように扱う業者の出現
1964年に一冊の本が出版されました。その名は、ずばり「切手でもうける本」。発行元は切手経済社という会社でした。その会社は店内にまるで株か何かのように「現在の切手相場」を掲示したり、週刊で新聞を発行してこれからの切手相場の見通し等を記事にしていました。この当時、こうした業者が現われるほどに切手ブームは盛り上がっていたのです。
ただ、こういった切手業者が対象としていたのは「記念切手の未使用品だけ」に限られていたため、一般の人達も「記念切手は未使用でないと価値がないんだ」と思いこみ、買い込んだ切手を「郵便に使用する」等は絶対にしませんでした。このため、現在残っている記念切手は全て未使用品ばかり、なのです。
こんな事態が発生したら行政が黙っていないのではないか?と思われる方もいらっしゃるかも知れません。しかし当時の切手の発行元である郵政省は、切手ブームによって売上が上がるので、むしろ歓迎していました。買いこまれた切手は「郵便には使用されない」ので、郵便配達業務が増える訳でもありません。切手の製造原価は安いので、まさに「売り得」だったのです。
切手というのは本来、ハガキや封筒に「料金を前納しました」という意味で貼られるものだから、切手の売上計上は「切手が使われた時」に行うのが筋ではないか?という議論が国会でなされたことがありました。確かにそれが筋かも知れません。しかし、そうなると「では窓口で売られた切手の代金はどう扱えば良いのか?」という問題が発生します。
つまり、郵便に使われた時に売上計上するとなると、窓口で売られた切手の代金は「仮の預かり金」として扱うしかありませんが、切手には使用期限がありませんので、その状態がいつ果てるとも無く続いてしまいます。それは郵政省にとって、とても受け入れられないものでした。このため、現在でも「切手は窓口で売られた時点で売上計上する」ということになっています。
要するに、記念切手の発行は、郵政省にとって「印刷するだけで、どんどん儲かる打ち出の小槌」のような存在であり、「売った切手は計上済であるから払い戻し換金は一切行わない」というルールになっているのです。
ブームの頂点は東京オリンピック
昭和39年(1964)に東京でオリンピックが開催されることになりました。しかし、当時の日本経済は余裕がなく開催施設を整備する資金に事欠いていたのです。そこで目をつけられたのが、ブームになっていた「切手」でした。日本の記念切手では「募金付切手」というものが、それまでにも何回か発行されていました。こういった切手は額面が 5+5 と言う具合に表示され、売値は10円ですが、切手としては5円切手としてしか使えませんでした。つまり、残りの5円は募金なのです。
資金に困っていた政府は大量のオリンピック募金切手の発行を行うことで不足分を賄おうとしました。折しも切手ブームの流れに乗り、このオリンピック募金切手は物凄い勢いで売れました。当時の日本人にとってオリンピックというのは「大変な行事」であり、その記念切手が値上がりしない訳がないと考えられたのです。
募金切手の発売日は前日の夜から人が並ぶという異常事態となり、割り込みによる争いなども、あちこちで勃発し、警察も出動したそうです。あまりにも売れるので政府は募金切手を6回に分けて全部で20種類も発行し続けました。おかげで十分な募金が集まり、無事にオリンピックが開催されました。また、募金切手を買い込んだ人達も「後は値上がりを待つだけ」と買った切手をアルバムに納めて満足していたのです。
東海道新幹線開通記念切手の架空相場
しかし、東京オリンピックが無事に終わったものの、オリンピック募金切手は一向に値上がりしませんでした。物の値段というのは需要と供給の関係で決まりますが、切手の場合、最終的な需要は「切手コレクターの存在」です。当時、切手コレクターは多かったのですが、何しろオリンピック募金切手は全部で一億枚を超える枚数が発行されており、どこでも安価で何の苦労もなく入手できました。
「オリンピックだから」という理由だけで値上がりするはずもなく、かといって郵便局は換金してくれません。結果的に市場規模をはるかに上回る枚数のオリンピック募金切手が出回り、さすがに切手商も、この切手の値段を上げることは出来なかったのです。
もし、無理やり値段を上げたなら、買い取ってもらうことを希望する人たちが大勢集まって来るでしょう。けれど、それを買い取ったところで売れる見込みはありません。切手コレクターには、もう十分に行き渡っているのですから。つまり「値段を上げたら切手商自身が困ってしまうだけ」なのです。
一方、郵便局に徹夜してまで並んで買った人達は「すぐにでも5倍や10倍になるだろう」と思っていたのが、全く上がらずに不満を募らせていきます。中には切手経済社に募金切手を持って行って、買い取ってくれと頼んだところ「1枚1円です」と言われ、逆上する人まで現れました。
一応、5円切手としての価値はあるのでハガキを大量に出す会社などには「あれば便利」だったのですが当然ながら5円では買ってくれず、せいぜい3円位だったのです。ですから自分のところの儲けを考えると「1枚1円」となってしまうのです。
段々とまずい状況に陥ってしまった切手経済社は「無謀な手段」に出ます。オリンピックが終わって数か月経ってから「東海道新幹線開通記念切手」というものが発行されました。
この切手は絵柄も良くて人気もあったので、無理やり取引値段を上げ始めたのです。300円、500円、1000円と上げていき、最終的には「1枚 2000円」という値段にまで上げました。もちろん、もう切手コレクターの需要などは考えていません。「まだ上がるだろう」と考える人達を相手にして高値で売っていました。
しかし、いざ「買取り」となると「額面に2、3円、毛が生えた程度の値段」だったそうです。つまり完全な架空相場を作って儲けようとしたのです。しかし、それが長く続くはずもありませんでした。他の切手商が50円くらいで売っている切手を2000円で買わせようとしていたのですから。
この高い値段で買った客がさらに値上がりした時に売ろうとしたところ、買い取り額を聞いて逆上するケースが続出。結局、この架空相場は終焉を迎えます。普通ならこれで破綻して終わりを迎えるところですが、切手経済社は「次の手段」に打って出て生き残りを図ります。
琉球切手の買い占め
時の佐藤政権は1969年に「沖縄返還」でニクソン大統領と合意を取り付けます。それまで沖縄は米国の施政下にあり、切手も米ドルの物が使われており「琉球切手」と呼ばれていました。しかし沖縄が日本に返還されれば日本の切手を使う事になるので、もう琉球切手は発行されないワケです。そこで切手経済社は「琉球切手はこれから値が上がる」とみて、買い占めに出たのです。買い占めにより、市場流通枚数が減ることで値段を高く設定できるので、必然的に儲けが出ると考え、そしてターゲットにされたのが1958年に発行された「守礼門復元記念切手」でした。
切手経済社はこの切手を買いまくりました。元々、それほど高い切手ではないので入手は容易だったと思います。しかし同社は既に信頼を完全に失っていました。
日本郵趣協会などの正規の切手コレクター団体は、この買い占め行為に抗議し、わざわざ同じ絵柄のシールを大量に作り、裏面に「買い占めに抗議しましょう」という文言を入れ無料で配布したりしました。その結果、この切手を買おうという人は全くいなくなり、大量に買い占めた切手経済社は倒産に追い込まれたのです。1973年6月のことでした。
そして切手ブームは同社の倒産とともに完全に終焉を迎えます。そして値上がりを期待して買った人達の手元には大量の未使用記念切手が残される、という結果に。それが押し入れや引き出しの中に残されたアルバムなのです。
困ったことに現在の郵便料金はハガキ52円、封書84円です。5円の切手だけではスペースの関係で貼れません。かといって郵便局では換金してくれませんし、街にある金券ショップでも5円、10円の切手はシートでも買い取ってはくれません。郵便局では「他の切手、ハガキと交換」が可能ですが、それには「1枚あたり5円の手数料」がかかります。つまり、5円切手は事実上、交換不可能で10円切手は半額分にしかならないのです。
また以前に比べて日本では、切手コレクターが年々減り続けており、今や切手商という商売をしている人もごくわずかです。そして戦後発行の額面の安い未使用の記念切手は、まず買い取ってはくれません。何しろコレクターがいないので、買い取っても売れないのです。
この「困った遺産」に悩んでおられるお年寄りは意外に多いようで、QAサイトで「昔の記念切手が大量にあるのだが、どうしたら高く売れるだろう」という相談が沢山、寄せられています。以前は「別納郵便」という制度があり、それを使えば安い額面の切手でもOKだったのですが、それも廃止されてしまいました。現在ではスマホの普及とメールの普及によりハガキや郵便は使用頻度が減り、ますます切手を使用する機会は減っています。
大変に残念ですが、この「困った遺産」は諦めるしかない、というのが実情です。元を正せば「身から出たサビ」ではあるのですから。
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