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富屋食堂のトメさんを知っていますか?
- 2023/05/12
トメさんは18歳で嫁ぎ、新たな生活が鹿児島県知覧町で始まりました。そして昭和4年(1929)、27歳の時に「富屋食堂」を開業するのです。その後日本は大東亜戦争に突入し、昭和17年(1942)には「富屋食堂」が陸軍での指定食堂となります。その後、知覧に「大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場」が置かれ、大勢の飛行兵たちがトメさんのいる「富屋食堂」で食事をするようになったのです。
特攻の母
鹿児島県知覧町は大東亜戦争の末期、「特攻隊」の最前線基地となりました。航空機に250kg弾を装着したまま敵艦に体当たりするという、なんとも悲惨な攻撃を行うべく、昭和20年(1945)3月から毎日のように特攻隊員たちが沖縄へ出撃していったのです。彼らは皆10代から20代の若者ばかりでした。出撃命令が出てから出撃するまでのわずかな日々を、若き特攻隊員たちは「富屋食堂」を訪れ、トメさんと一緒に過ごしたのです。そしてトメさんは、隊員らをわが子のように慈しみ、親身に接しました。いつの頃からか、誰もがトメさんのことを「特攻の母」と呼ぶようになったのです。6月頃には知覧からの出撃もほぼ終わり、わずか2か月後の8月15日に日本は終戦を迎えたのでした。
国や国民を守ろうとしたのに
戦争が終わった直後、トメさんは飛行場跡地に1本の棒くいを立てます。トメさんにとってこの粗末な棒くいこそが、出撃していった若き特攻隊員たちのお墓だったのです。その事を2人の娘に告げると、それから毎日欠かさずお墓に通い、手を合わせ続けたのでした。戦争中は特攻隊員たちを軍神と呼んで、神様のように崇めていましたが、日本の敗戦が決まった後は、世論が一変してものすごい逆風となりました。当時の言論人や文化人・有識者と呼ばれるような人々は、生き残った特攻隊員を「特攻くずれ」などと呼んで、軍国主義の象徴とさげすんだのです。
命を懸けて国や国民を守ろうとした若者たちに対してですよ? 日本人本来の心を捨てた人間のなんと多いことか。その風潮は現代社会でもよく見られますが、非常に悲しむべきことですね。
観音堂
そんな世間に関係なくトメさんは、長い間ずっと特攻隊に対する慰霊の心と平和の尊さを、命懸けで伝え続けてきました。トメさんは当時の町長にも再三働きかけて、飛行場跡地に観音堂が建立されるようにしたのです。この時、終戦からすでに10年の年月が経っていました。苦労の末、ようやく建設された観音堂でしたが、最初は誰もお参りに来ませんでした。このまま放置されれば、せっかく観音堂が建ったのに 特攻隊のあの子らがうかばれない、とトメさんは毎日通い続けたのです。
さらに近所の子供たちにも観音堂のお参りをすすめ、掃除をさせてお菓子を配ったりして特攻隊員たちのことを語り続けました。未来ある子供たちに真実を伝えることは、非常に意味のあることですよね。
特攻隊員たちのもとへ
晩年のトメさんは脚が悪くなり、歩くのに杖が必要になっていました。ですので雨の日になると、片手には杖を、もう片手にはお供え物やお花を持っているので、傘が差せません。高齢になったトメさんにとって、まさに命懸けの参拝でもあったのです。それでもトメさんは、どんな時でも必ず参拝を続けたのでした。トメさんの命懸けの努力があって、現在では、毎年5月3日に「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が行われています。全国から1000名以上という多くの参列者の方々が訪れています。
トメさんは平成4年(1992)4月22日、89歳で隊員たちのもとに旅立って行きました。毎年の慰霊祭を天国から見ながら、きっと喜んでおられることでしょう。
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