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領地替え撤回を領民が直談判!天保義民事件は前代未聞のできごとだった
- 2022/11/07
江戸時代後期の天保11(1840)年、庄内藩、長岡藩、川越藩の三方領地替えが幕府から命じられました。ところが、翌年に幕府が領地替えを撤回するという前代未聞の事態が起きたのです。撤回への道筋を切り開いたのは、庄内藩の領民たちでした。
「天保義民」と呼ばれた領民たちは、どんな行動を起こしたのでしょうか?
「天保義民」と呼ばれた領民たちは、どんな行動を起こしたのでしょうか?
庄内、長岡、川越藩の三方領地替えの背景
徳川幕府は、大名の領地替えを頻繁に行ってきました。後継者がいなくなったことによるお家断絶や懲罰的な意味合いの領地替えのほか、譜代大名の出世に伴ったケースなどもあり、江戸時代を通じて同じ大名家が統治し続けた藩の方が少ないくらいです。コラムのテーマである庄内、長岡、川越藩の三方領地替えは、川越藩松平家が発端となっています。松平家は、大御所として権勢をふるっていた徳川家斉の子どもを藩主の養子として迎え入れ、それを後ろ盾に領地替えを幕府に求めたのです。
松平家は財政難に苦しめられていたので、同じ石高でも財力が豊かな藩に移りたいという願望がありました。家斉の周辺にも積極的に働きかけたようで、家斉からの圧力もあって、幕府は松平家の言い分を聞き入れることを決断します。
こうして天保11年、松平家を庄内藩へ、庄内藩酒井家を長岡藩へ、長岡藩牧野家を川越藩へと移す三方領地替えを命じました。酒井家と牧野家にとってみれば、降ってわいたような話であり、到底納得できるものではありません。しかし、幕府の命令は絶対的であり、逆らえるはずもないのです。
庄内藩酒井家とは
庄内地域は、戦国時代に越後の上杉家と山形の最上家が領有権を争っていました。北前船の良港である酒田があり、肥沃の地にも恵まれた地域だったからです。関ケ原の合戦後は最上家が支配していましたが、お家騒動によって元和8(1622)年に改易されます。そのあとに、譜代大名の酒井忠勝が入府して庄内藩初代藩主となりました。忠勝の祖父は、徳川家康四天王の一人、酒井忠次という名門でもありました。
領地替えが頻繁に行われた江戸時代にあって、酒井家は初代忠勝以降、幕末まで庄内藩主であり続けました。藩主と領民(農民)、それに財力を持つ商人との三者間での結びつきが深かったといい、忠勝入府から約200年間、良好な関係を築き上げてきたといいます。
移封先に指定された長岡藩は、庄内藩と比べて石高は半分しかありません。何の落ち度もないのに、まるで懲罰的な領地替えを命じられた酒井家の藩主や家臣たちの心中は察して余りあるものがあります。
庄内藩の領民が起こした行動
領民にしてみても、藩主が「酒井家から松平家に代わる」だけでは済まなかったのです。酒井家との絆は長い間に培われてきたものであり、新しい藩主と同じような信頼関係が結べるとは限りません。さらに、松平家が財政難であることも知られていました。そこで領民たちは、江戸にのぼって「領地替えの撤回」を直訴しようと、秘密裏に計画し実行しました。そして、幕閣である大老や老中が江戸城へ登城する際に待ち伏せし、訴状を提出するという行動に出たのです。
訴状には、酒井家の長年の善政に対する感謝と、領地替えによって領民が嘆き悲しんでいるという実情を訴え、「酒井家には庄内藩の殿様でいてほしい」との切実な願いをしたためていました。「領主を慕っている」との理由を堂々と言い表したのです。
さらに、領国内でも領地替え反対の声が激化し、なかには「百姓であっても二君に仕えず」と記した旗を掲げる者もいたそうです。また、近隣の仙台藩に入り込み、伊達家に助力を求める領民も現れるなど、大規模な運動へと広がっていったのです。
おわりに
三方領地替えは、将軍徳川家慶の命によって翌年の天保12(1841)年、白紙となりました。幕府が、一度命令したことを撤回せざるをえなくなったという前代未聞のできごとが、庄内の名もない領民たちによって引き起こされたのです。庄内藩は酒井家が引き続き統治することになり、27年後の明治維新まで続いていきます。領民たちの行動は、庄内出身の作家、藤沢周平さんの歴史小説「義民が駆ける」で広く知られるようになり、大衆が権力者を動かした事件として今に語り継がれているのです。
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