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荒川沖駅無差別殺傷事件 人類という生物種が持つ特性

常磐線 荒川沖駅
常磐線 荒川沖駅
 2000年を超えた辺りから無差別殺傷事件という通り魔的な犯罪が増えてきました。有名なところでは秋葉原無差別殺傷事件、付属池田小無差別殺傷事件、近年でも小田急電鉄無差別殺傷事件などです。これらの通り魔的な事件の犯人には共通性があり、皆「誰でもよかった。死刑になりたかった」と語っています。

 今回はその中でも2008年3月19日に起きた「荒川沖駅無差別殺傷事件」を取り上げてみます。何故なら、この事件には「こういった事件を起こす犯人像」が集約されていると感じるからです。ちょっと考えれば誰でも「社会的に追いつめられた故の自暴自棄的な犯罪」と思われるでしょう。多分、それは合っています。では「社会的に追いつめられた人」が全員、こういった事件を起こすのか、と言うと決してそうではないことも、ご理解頂けると思います。つまり、こういった事件を起こす人物には何等かの共通要素がある、と考えられないでしょうか。

 そもそも「死にたければ勝手に自殺すれば良い」だけの話です。何故、全く無関係の人々を巻き込んでまで「死刑になりたかった」のでしょうか?自殺する勇気がなかったからかもしれません。或いは「社会に対する復讐」をしたかったのかもしれません。

 この荒川沖駅無差別殺傷事件は他の事件に比べると知名度は低いのですが、犯人の行動が他の事件よりも異常であり、常識ではとても理解できない部分も多く、それだけ「特別な要素」が顕著に現れているのでないかと考え、あえて取り上げた次第です。

事件の概要

 平成20年(2008)3月23日の午前11時過ぎに常磐線の荒川沖駅構内において、男K(当時24歳)がサバイバルナイフで西口から東口にかけて手当たり次第に、その場にいた通行人の首をナイフで切りつけました。その結果、1人が死亡、7人が重傷。

 実はKは駅での犯行の4日前、適当に選んだ住宅のインターフォンを押して出てきた男性の老人を包丁で刺し殺し、逃げていた最中でした。駅にも見張りの警官が配備されていたのですが、Kの顔を知らなかった警官は、Kに襲われてしまい、取り押さえられなかったのです。

 その後、Kは荒川沖地区交番に自首しましたが、その理由は罪悪感からではなく、「早く死刑にして欲しかったから」という理由でした。自首したKは警察官が死刑になるであろうことを確約してくれないので非常にイライラしていたそうです。

Kの履歴と人物像

 Kはごく普通の家庭に生まれました。父は外務省のノンキャリア官僚で母はパート兼業の主婦です。小学校、中学校、高校まで地元の学校に通っており「高校2年生までは普通のおとなしい子」だったそうです。妹が2人と弟が1人おり、6人家族で一見、ごく普通の家庭であったそうです。

 高校に入ったKは弓道部に入り、2年生の時に副主将を努め、全国大会にも出場しています。部内でも実力を認められて尊敬されていたのだそうです。そのKに変化が起こり始めたのは高校2年の後半あたりからだそうです。

 修学旅行の感想文を書かされた時に「人類への敵意をむき出しにした内容」を書いて提出し、先生に書き直しを命じられたのです。しかし半分程度しか直さず、先生に注意されると「心の思うままに書いただけ」といって取り合わなかったそうです。それまでは勉強でも弓道でもコツコツと努力するタイプであったKが突然「人類への敵意」をむき出しにし始めたのです。特に妹に対する憎悪は激しく、「いつか殺してやる」と言っていたそうです。

 その後、3年生になると私立大学文系への進学を希望。学力は十分あったのに、突然「興味がなくなった」といって大学受験を止め、就職希望に変更します。そこで進路指導の教師はKに和菓子メーカーへの就職を斡旋しますが、Kを面接した和菓子メーカーは不採用にします。その理由は分かりませんが、何か尋常でないものを感じ取ったのかもしれません。しかしKは「自分から辞退した」と言い張っていたそうです。

 一方、全く勉強をしなくなったKは高校の卒業単位が危うくなってきました。教師は「レポートを提出すれば単位を与える」と言ってくれたのですが、Kは「卒業しなくてもいい」と言い、レポートを出しませんでした。弓道部の後輩に説得されてレポートを出し、何とか卒業をすることができたようです。しかし卒業後も何もせずに家でゲームをしたり漫画を読んでいたそうです。欲しいゲームや漫画があるとアルバイトをして買い、それを買ったらアルバイトも止めるという生活をしていたそうです。

 一般的に素行不良である人間は欲しい物があれば盗むか、誰かから無理やり金銭を取り上げる、ということが多いのですが、Kは「自分で働いて買っていた」という点が通常の「素行不良」とは大きく異なります。つまり、彼は目的があれば働くことを厭わない人物であったのです。

 実際、Kがアルバイトをしていた先での勤務評価はどこでも、非常に良かったのだそうです。そしてKはあるゲームの大会に出場して関東地区で準優勝という成績を残しました。

 普通、自暴自棄になって通り魔的な無差別殺人事件を起こすような人物は「何をやらせても駄目」であり、世間に自分の居場所を見つけることが出来ず、追いつめられた結果というケースが想像されますが、Kにはあてはまりません。

 彼は働けば「優秀な人材」と評価され、何かをやらせれば人一倍上達し、大会に出ても上位の成績を残せるだけの力量を持っていたのです。つまり、見つけようと思えば、世間に自分の居場所を見つけることが出来たであろう人物だったのです。

 そんなKがおかしくなりだした高校2年生の後半期に一体、何があったのでしょうか? 実は「何もない」のです。失恋したとか、先生に怒られたとか、何か自尊心を傷付けられるようなことがあったとは誰も語っていません。ただ、父親が「子どものための哲学対話」という、一冊の本を買い与えたそうで、Kはその本を読んだのをきっかけに、変化が起こり始めたようなのです。

 一見、普通よりも優秀に見えるKですが、自分の中では「理想の自分と現実の自分」の落差に常に悩んでいたようなのです。それほどにKの「理想の自分」はレベルの高い物であったようで、彼にとって「上位の成績」は望ましいものではなく、「圧倒的な大差でのトップ」以外は受け入れられない結果であったのです。

 「いつになっても理想の自分になれない自分」に常に悩まされ、遂には「そうなれないのは自分ではなく、周囲の環境が悪いためだ」と考えるようになってしまった、と思われるのです。そして、一旦、狂いだした歯車は次々とあちこちで狂い始めます。

 しかし本人は「自分が狂っている」ということに絶対に気が付きません。それに気が付くのであれば「正常」なのですから。実際、正常な精神でも狂った精神でも「見える風景」は同じであるそうです。ですので「狂った人間」は自分が狂っていることに気が付かないのです。

Kの精神鑑定の結果と生物学的見地での意見

 Kは警察の事情聴取で「死刑になるために人を殺した」と淡々と述べています。しかし警察にとって、この供述はあまりにも荒唐無稽すぎる動機でした。そこでKの精神鑑定が行われることになりました。そして「自己愛性パーソナリティ障害」という鑑定結果が出されます。要は「自分に対する愛情(= 希望)があまりにも大き過ぎる性格」という結果でした。

 よく「反社会性パーソナリティ障害」という、いわゆる「サイコパス」が取り上げられますが「パーソナリティ障害」というのは正常と異常の間に位置するもの、という認識で裁判では「責任能力有り」と判定されます。しかし、これは精神科医の定義であり、人間の精神は外部からは全く見えない物なので究極的には「仮説である」とも言えるのです。

 精神科医の定義は、それまでの事例に基づいた分類に過ぎない、という言い方は失礼かもしれませんが、人類も1つの生物種である以上、「個の多様性」という側面を持っています。現在の地球上に生きている生物種は全て、地球の環境変化に対応するために「様々な種類の個体」を用意しておき、環境変化に耐えられる個体が残せた生物種だけが現在の地球上に生きているので、人類も例外ではありません。従って「色々な種類の個体」がいて当然なのです。

 そして人類は「よりよい生活を送れるようにする」ために集団生活を選び、役割分担をして社会という組織を作りました。これは蜂や蟻もそうです。しかし「様々な個体」の集まりでは「一定のルール」がないとトラブルが多発してしまうので人類は「法律」というルールで社会組織に一定の枠をはめて「して良いこと」と「してはいけないこと」を明確にしたのです。

 しかし「様々な個体」の中にはそういったルールを守ろうにも、守れない個体が出てしまうのもやむを得ないこと、なのではないでしょうか? しかし、そういった個体が現われてしまった場合、人類は「社会組織を守る」ために、その個体を排除しなければならないのです。

 「自己愛性パーソナリティ障害」というのは、排除を正当化するための手続きの一環である、という見方も可能かもしれません。もちろん、これはあくまで1つの意見でしかありません。しかし、そういった見地から見ればKという人物が理解できるのではないでしょうか? いわゆる「常識的な考え方」を基にKを理解することは不可能だとしか思えないのです。

裁判と判決

 Kは被告人罪状認否で罪を認め、死刑にして欲しい旨を訴えます。しょうがないので弁護士は「Kにとって死刑は極刑ではなく、ご褒美に過ぎないため、死刑判決はその本来の目的に沿わないものであるから回避すべきである」という前代未聞の弁護を展開しました。

 また、改めて行われた精神鑑定では「『殺人はやってはいけないことである』という常識」自体は理解していることから妄想でもなく、自己愛性人格障害と推定される。人格障害は精神病ではないため責任能力が認められる」と言う結果が出されました。

 皆さんもご存じの通り、日本の裁判は時間がかかります。早く死刑にして欲しいKは第5回公判では裁判が長いことに怒り出し、目の前の机をひっくり返したりしました。そして最終的に地方裁判所は死刑判決をKに言い渡します。

 なお、最終弁論における担当弁護士の意見陳述は以下のようなものでした。

  • 死刑を求めるKに死刑を与えるなら、死刑が刑罰として機能しない。強盗に金をやるようなものだ。
  • 潜在的な自殺志願者が死刑となることを望み、犯行を模倣する恐れがある。
  • 法律上は、無期懲役であっても一生懲役に服させることは可能であり、一生かけて贖罪や供養をさせるという選択肢もありうる。

 この意見は的を得ている面もあると思います。日本では「死刑制度廃止」には根強い反対世論がありますが、実はこういった一面から「死刑反対」という言い方もできる、ということは知っておいて損は無いと思います。

 実際、その後「死刑になりたいから」という理由で無差別殺人を起こした人達が結構いることはご存じでしょう。それは日本に「死刑制度があるから」出てくる発想でもあるのです。つまり、死刑が抑止力とならない人達が存在するのです。そういう人達にとっては、むしろ「無期懲役で一生、刑務所の中で規制されながら、生かされる」という方が遥かに大きな苦痛でしょうから、よっぽど抑止力がありそうです。

 先の生物学的な見地から考えれば、今後も「ルールを守れない常識では理解しがたい個体」は必ず現れます。しかし、それは本人が望んでなったものではない、というのも事実です。ですので大多数の人々にとっては「排除 = 死刑」が一番、と考えるのと同じように、本人の望み通りにしてやるのも「社会的な慈悲」と言えるかもしれません。「常識」と言う言葉は決して、万人に通用するものではないのです。

 近年、多様性という言葉が良く使われますが、何も人間が意識しなくても大自然はとっくに人類に多様性を与えているのです。また多様性を獲得できなかった生物種は絶滅してしまい、生まれた時の環境に合わない個性を持って生まれた個体は生き残れない、というのは地球という惑星が出来た時からの「大自然のルール」でもあるのです。

 哲学というのは「本質を探る学問」です。Kは哲学という学問に触れ、本質を追及した結果、自分という個体の特性を理解したのかもしれません。こういった事件を「常識的に推し量る」ことは全く意味がないと言っても過言ではないでしょう。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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