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氾濫を繰り返す鴨川の中州に寺院を建立したのは陰陽師・安倍晴明だった
- 2024/05/31
現在、京都の代表的な観光スポットになっている鴨川。夏は床で楽しんで、春秋には等間隔で並ぶカップルたちをみてぽっこりと、穏やかな表情を見せています。しかし、遠く歴史を遡り、平安時代の頃には、白河天皇が「サイコロの目と鴨川の流れは意のままにならない」と嘆いたように氾濫を繰り返す暴れ川だったのです。
人気観光スポットの鴨川
京都のシンボルとして有名な「鴨川」は、今では人気の観光スポットです。京都市北区雲ケ畑から伏見区の桂川まで、約31kmを流れています。弘仁5年(814)に書かれた『日本紀略』にも登場する歴史のある川で、「加茂川」とも書きますね。高野川合流点より北側を賀茂川、南側を鴨川と使い分けているようですが、現在の河川法では、鴨川が全長の総称となっています。鴨川は風光明媚な京都の魅力の一つとなっています。河畔には遊歩道やベンチも整備されていますし、もちろん車も通りませんので川沿いをひたすら歩いて行けます。夏の風物詩となっている鴨川納涼床が出るエリアから、鴨川デルタと呼ばれる鴨川の三角州までは約3キロの道のり。約20分ほどです。緑が眩しい川辺は、美しい散策路です。
陰陽師・安倍晴明が鴨川の氾濫を抑える
平安時代の頃、氾濫が度重なる鴨川は人々の生活をおびやかす存在でした。それに困った花山天皇は、陰陽師で名高い安倍晴明に鴨川の治水を依頼。命を受けた安倍晴明は祈祷を行うのですが、たちまち「水が去って土が成り」と伝わっています。実際は、晴明が監修する治水工事がされたので乚ょうね。その後、晴明は、鴨川の中州に法城寺と名付けた寺を建立します。そして晴明を祖とする、民間で活躍する陰陽師たちの拠点になったのです。寺内には晴明を葬ったとされる塚もあるんですよ。京都観光の際、安倍晴明ファンなら欠かせないスポットになりますね。ただ、当時と今では所在地が大きく変わっていますので、しっかりと調べてから行くようにしてください。
鴨川は想像以上の大河だった
平安時代、当時の川幅は東西400m・南北800mの広範囲に広がっていました。川の中央部には中州があり、ここに安倍晴明が法城寺を建立したのです。現在の京都市内でいうと、現在の宮川筋辺りに宮川が流れていたようで、その宮川に架かる橋が法城寺のあった中州を繋いでいたので、現在の松原橋児童公園の北側あたりだったようです。清水寺参詣曼荼羅に描かれた五条橋を見ると、中州に架かっていた五条橋、つまりは西側の五条橋で牛若丸と弁慶が出会います。実は五条橋は2つあって、その西側の橋が対決の場になったというわけですね。
京都を現在の姿にしたのは豊臣秀吉で、五条橋も架け替えられてしまい、松原には橋がなくなっています。その結果、法城寺も慶長12年(1607)には三条大橋の東側に移転し、寺名も「法城山晴明堂心光寺」と改められました、その際、宗旨も真言宗から浄土宗に改宗され、現在に至っているのです。
今の鴨川は豊臣秀吉によるもの
鎌倉時代の仏師・快慶が作った傑作とされる「阿弥陀如来立像」、現在心光寺本堂に安置されています。しかし、かつて鴨川の法城寺本堂にあったご本尊はこの「阿弥陀如来立像」だったのです。当時の晴明塚は今でも宮川町に祀られています。法城寺の通称だった「大黒どう」の大黒天さんは、現在の清水寺本堂に祀られている有名な「出世大黒天」そのものなんですよ。この広大だった鴨川の川原は、寛文10年(1670)に行われた河川改修で現在のような川筋になりました。この時の工事で秀吉構築の御土居堀も壊されて、広かった川原も大きく変貌します。今ではお馴染みの先斗町・木屋町・宮川町などは、この河川改修工事で形成され、現在のような町並みができあがったのです。
豊臣秀吉が五条橋を付け替えて以降、松原橋は簡素な板橋という姿のままだったようですが、明治14年に京都府が本格的な木造橋を架け、同39年には新たに架け替えられます。しかし昭和10年の「鴨川水害」によって流失し、現在あるコンクリート構造の橋は昭和34年に造られたものなんです。
現在の橋を見て、歴史を辿れば、安倍晴明が建立した法城寺に渡る橋だったと偲ぶことができる人は、いったい何人いることでしょう。
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