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河井継之助と岩村精一郎は、なぜ交渉決裂したのか?
- 2023/06/22
幕末の戊辰戦争で新政府軍は、彰義隊の戦いを1日、鳥羽伏見の戦いを数日で決着させたのに対し、越後の長岡藩と戦った北越戦争は鎮圧に3カ月を要しました。その戦闘の火ぶたを切るきっかけとなったのが「小千谷談判」の決裂でした。カギを握っていたのは、長岡藩軍事総督の河井継之助(かわい つぎのすけ)と新政府軍軍監の岩村精一郎(いわむら せいいちろう)だったのです。
河井継之助とは
河井継之助は、文政10年(1827)に長岡藩の中級藩士の家に生まれました。26歳の時、遊学のため江戸に行き、佐久間象山の門をたたきます。同門には、勝海舟、橋本佐内、吉田松陰といった幕府や諸藩の逸材がおり、彼らと切磋琢磨していました。優れた知識と行動力を身につけた継之助は、藩主だった牧野忠雅に藩政改革の必要性を説き、忠雅から要職に抜擢されます。しかし、門閥主義の上役たちには煙たい存在だった継之助は、閑職へと追い込まれてしまいます。
幕末の激変する時代になってきた時、先進的な継之助の存在は必要不可欠なものとなり、やがて家老へと昇進します。継之助は軍備強化に力を入れ、当時最強の兵器と言われた「ガトリング砲」を購入し、長岡藩に近代軍備を整えたのです。
軍備を増強し「武装中立」を主張
慶応3年(1867)、薩摩藩や長州藩を中心とした討幕派に対し、15代将軍の徳川慶喜は「大政奉還」という策に出ます。すると薩長は「王政復古の大号令」で対抗し、慶喜を納地辞官に追い込みます。そして翌慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いが勃発するのです。全国諸藩は、新政府軍につくか、旧幕府軍につくか、選択を迫られました。長岡藩は、老中まで務めた譜代大名だったので旧幕府寄りでしたが、軍事総督を務めていた継之助の考え方は少し違っていました。
領地が隣接していた会津藩にとって、長岡藩の兵力は魅力的でした。しかし継之助は、積極的に会津藩に加担しようとはしません。一方で、進軍してくる新政府軍にも恭順するつもりはありません。長岡藩は第三の道「武装中立」の立場を取ったのです。
岩村精一郎という人物
継之助は、新政府軍に対し抵抗しない姿勢を見せたうえで、小千谷の本営に出向き、会談を申し入れました。新政府軍は長州の山県有朋や薩摩の黒田清隆が率いていましたが、継之助と対面したのは、軍監の岩村精一郎という若者だったのです。精一郎は弘化2年(1845)に土佐藩で生まれ、幕末期には中岡慎太郎の陸援隊に所属していましたが、とくに目立った軍功はありません。新政府軍では山県や黒田に比べると、明らかに格下ですし、継之助とは親子ほども年が離れていました。
政治的な交渉が精一郎とできるのかどうか不安だったに違いありませんが、継之助は長岡藩の事情を説明し、「出兵には応じられないが、必ず会津藩を説得してみせるので、時間をいただきたい」と嘆願します。
しかし、精一郎は「時間稼ぎ」と決めつけ、継之助の言葉を頑として聞き入れようとしませんでした。
ひょっとすると、初めから「長岡討伐ありき」というのが、新政府軍の方針であり、精一郎は忠実に従っただけだったのかもしれません。
北越戦争の顛末
継之助は、なおも新政府軍に嘆願しましたが、結局受け入れてもらえませんでした。「ここに至っては開戦やむなし」と覚悟を決めた継之助は、長岡藩に戻り、徹底抗戦することを宣言するとともに、奥羽越列藩同盟に加わったのです。長岡藩は、会津などの援軍を加えても、新政府軍との兵力差は歴然としていました。それでも、継之助が作り上げた部隊はよく戦い、一時は主要な軍事拠点を押さえるなど、新政府軍に「戊辰戦争最大の苦戦」を強いることになったのです。
継之助も自らガトリング砲を駆使して、激闘を戦い抜きましたが、銃弾を受けて戦線離脱します。指揮官不在となった長岡藩は総崩れとなり、ついに降伏を余儀なくされました。3カ月にわたる北越戦争は、長岡のまちを戦火で焼き尽くしたのでした。
おわりに
重傷を負った河井継之助は、会津へ向かう途中で容体の悪化を悟り、火葬の段取りを指示してこの世を去りました。辞世の句「八十里こしぬけ武士の越す峠」に、継之助の無念の思いが込められているのが分かります。岩村精一郎は、明治になって当時のことを回想し、「河井の人物を知っていれば談判の仕方も違っていただろう」と語っています。のちに愛媛や石川などで県令を務めた精一郎には、長岡を荒廃に追いやった斬鬼(ざんき)の念があったのかもしれません。
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