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山縣有朋の悪役のイメージはどこから来たのか?

 山縣有朋(やまがた ありとも、1838~1922)といえば明治時代の英傑の1人として有名な人物ですが、「では一体、何をした人?」と問われると案外に答えられない人が多いのではないでしょうか?

 何となく悪役のイメージが強い、と言う方も多いでしょう。でも何をしたかを知らないのに「悪役」というのも変な話だと思いませんか? そこで山縣有朋とは一体、何をした人物なのかをあらためて事実とともに列挙してみたいと思います。

Wikipediaを読んだら大変!

 山縣有朋について、Wikipediaで調べるとイヤになってしまうかもしれません。何しろ、全体の文章量が多く、内容が「地味」すぎて、読んでいると飽きてきてしまうからです。

 山縣有朋は何か輝かしい功績を遺した人物という訳ではないのです。しかし凡庸な人物でもありません。明治維新の英傑と呼ばれる人の中に凡庸な人物などいる訳がないのです。ただ、彼の業績は軍事面、政治面で広範囲に渡っていて「非常に捉えにくい」ため、それがWikipediaの文章量を増やしているのです。

そこで、いくつかのトピックに分けて説明してみましょう。

日本陸軍を作った人

 明治維新がなった時、陸軍と海軍が設けられましたが、陸軍の軍人は薩摩藩の元武士で占められており、大部分が西郷隆盛の心服者でした。西郷が鹿児島に帰ってしまうと、続々と陸軍の軍人も西郷を慕って帰郷してしまい、その後の陸軍はわずかな兵力しかありませんでした。

 現在と違い、明治時代は欧米の列強に対抗せざるを得ない状況であり、これでは万が一の場合にどうしようもありません。そこで山縣有朋は日本各地にいる旧藩にいた元武士を「鎮台制度」という制度を設けることによって集め、兵力としたのです。

 このおかげで諸藩の困窮した武士達は職に就くことができました。また、徴兵制度を設けて国民から屈強な人物を集めて訓練を施し、兵隊としたのです。もし当時、陸軍がなかったら欧米列強から狙い撃ちされかねない状況であったことを考えたら、日本を危機から救ったとも言えます。

 しかし現代から見ると、徴兵制度というのは非常にネガティブなものであり、軍隊の必要性というものも理解しづらいものがあります。この辺りが山縣有朋のマイナスイメージの一端を担っているように思います。

 実は鎮台制度を設ける前、山縣は大久保利通・川村純義・西郷従道とともに、西郷隆盛の説得にあたっています。彼が政府に戻ってくれれば陸軍の再興は容易だからです。でも西郷は応じませんでした。そこで、やむなく鎮台制度と言う制度でカバーすることにしたのです。

西南戦争を鎮圧した人

 西郷隆盛が帰郷後、私学校を中心に反政府勢力となり、ついには西南戦争が起こります。これは決して西郷隆盛が意図したことではない、と私は思っていますが、争いが起きてしまった以上、対応せざるをえません。そして、その対応にあたったのが山縣有朋でした。

 ご存じのように西南戦争で西郷は死に、西郷軍の敗北に終わります。西郷隆盛という国民的な人気者を殺した人物、というイメージがここで山縣有朋についてしまうのです。さらに西南戦争は明治政府に大きな財政負担をかける結果となってしまい、手柄を挙げた陸軍軍人に十分な報償を与えることができませんでした。その結果、陸軍内部からも山縣有朋は嫌われる結果となってしまうのです。

 もし西郷隆盛が求めに応じ、明治政府に戻って陸軍の再興をしてくれていたら、こんなことにはならなかったでしょう。山縣有朋という人物は、何故か、こういった「損な役割を引き受ける結果となってしまう」ことが多いのです。

内務大臣として

 その後、山縣有朋は内務大臣となります。そして地方自治の形成に尽力し、市制・町村制・府県制・郡制を制定しました。地方自治に力を入れたのは国民に新しい政治の仕組みを理解させることと、過激思想(特に自由民権運動)を政治の場から排除し、穏健な人達に任せる意図があったと言われています。

 中央と地方という構図は山縣有朋によって築かれたものなのです。もっとも、最初のうちは財政不足、仕組みに対する理解の未熟さから相当な混乱を招いたそうです。そこで山縣は何度も改正を行い、地方自治がうまく機能するように努力します。その結果として地方政治もうまく回るようになったのです。

 ただ、思わぬ結果として、山縣有朋は地方との人脈が出来、陸軍と地方という2つの大きな人脈を得ることになります。これは他の政治家が持ちえない、彼独特のものとなり、その後の山縣有朋の政治的優越を招くことにつながります。

 しかし内務省というのは戦後の自治省にあたる行政機関で国家公安員会を管轄下におく治安を守る役目も持っている所です。そして「公安」というのは、戦前の特高警察に代表されるように「異端的な思想を徹底的に弾圧する」というイメージが強く、戦前でも「内務官僚」というのは、どこか暴力的なものと結びついている印象があります。

 また刑務所の設置、運営なども行っていたのですが、山縣有朋は刑務所の運営方針として「犯罪に対する抑止力とするためには刑務所は恐怖を与える場所でなければならない。決して安楽に暮らせるような場所にしてはいけない」とし、その結果、刑務所では囚人に対し過酷な労働をさせ死亡させてしまう例も多く出ました。

 これは当然といえば当然のことと言えるのですが、こういった言葉も山縣有朋に対するマイナスイメージを増幅させている、と言って良いでしょう。ですが、彼の言っていることは正論であり、「すべきことをしているだけ」なのです。刑務所が安楽に暮らせる場所にしたら犯罪を煽るようなものなのですから。

 山縣有朋は「自分は軍人である」と常に言っていたそうです。それは陸軍を作った人として当然の言葉でしょう。そんな彼が何故、内務大臣を引き受けたのかは分かりませんが、多分に「日本という国をまとめるには地方自治を確立させねばならない」という思いがあったため、とも言われています。

 つまり彼は「日本と言う国全体」を常に視野にいれていたのです。

日清戦争の勃発

 明治27年(1894)に李氏朝鮮で東学党の乱と呼ばれる農民を主体とする暴動が起きました。その結果、日本と清の関係の緊張が高まり日清戦争へと発展します。

 この時、山縣有朋は57歳で枢密院議長という要職にありましたが、自ら戦線に参加する旨を表明し第一軍司令官の内命を受けて出陣します。彼は生涯「自分は軍人である」という信念を捨てなかったのです。

 出陣はしたものの体調を崩し、病に臥せますが、彼は帰国しようとはしませんでした。やむなく明治天皇は「病気にかかったと聞いて心配に耐えない」「戦地の様子を聞かせるように」という勅語を出し、半ば、強制的に山縣を帰国させます。失意の内に帰国した山縣を気遣い、明治天皇は伊藤博文、井上馨と相談して山縣の体面が守られるよう、2回目となる「元勲優遇の詔勅」を与えています。いかに明治天皇が山縣有朋という人物を買っていたかが分かります。

政党政治の発展

 日清戦争が終わる頃、日本の政界では政党というものが出現しつつありました。議会というものが最終的には多数決で決まる以上、「徒党を組んだ方が有利」と見た訳です。そして伊藤博文は立憲自由党と組み、松方正義は大隈重信の進歩党と手を組もうとしていました。

 しかしそれまで、いわゆる「藩閥政治」が続いていた明治時代には、「政党」というものに反発する勢力も大勢いたのです。そして山縣有朋も政党には反対派だったので、多くの政党反対派の政治家が山縣有朋の元に集まり、一大勢力となりました。そうでなくても山縣有朋は陸軍、地方政治家と人脈が広い人物であったので、そこへ更に「反政党派の政治家」が結集した結果、「山縣有朋派」ともいうべき大派閥が出来上がる結果となったのです。

 当時の「政党」というのは、いわば「多数派に付けば要職になれる」という思惑で集まった連中の集まりで「政策の一致」とか「施政方針の一致」などは二の次、という状態でした。このため、政党を組んで多数派となって成立した第1次大隈内閣は閣内の政策不一致や猟官運動などが批判され、さらに政党政治への不信を募らせる結果となり、あっけなく瓦解します。

 そして明治天皇は山縣有朋に組閣の大命を下します。政党政治を行うには、まだ政党というもの自体が未熟過ぎたのです。しかし、ここでも彼は「反政党の人物」という現代において行われている体制への批判者という位置づけで見られてしまうのです。

 山縣有朋は首相在任中はテキパキと各方面の行政整備を行い、官僚制度を確立させたり、選挙制度の改正など、地道に国内の整備にあたり、当面の政治課題が一通り片付くと明治天皇に辞意を申し出ます。明治天皇は再三遺留したのですが辞意の撤回には応じませんでした。

 山縣有朋の後継はすったもんだの挙句、伊藤博文となり、第四次伊藤内閣が発足することになりますが、伊藤内閣は全く機能せず、また反政党政治家の妨害工作などにも会い、ついに伊藤博文は政権を投げ出します。そして桂太郎に組閣の大命が下ることになるのですが、これは政治の乱れを回避させるべく山縣有朋が慎重に誘導した結果であったのです。

 ですので桂太郎内閣に山縣有朋は積極的に協力し、内閣を支えました。そうしているうちに政党というグループは少しづつ進歩し、西園寺公望を総裁とし、幹部に原敬を擁する政友会も桂太郎内閣を支え、政権運営のノウハウを学んでいったのです。

 つまり山縣有朋は結果的に政党というものの「育ての親」という見方も出来るのです。

日露戦争の勃発

 明治35年(1902)ロシアが朝鮮半島に進出してくることが危惧される状況となりました。山縣有朋はロシアとの戦争は回避した方が良いと考えていたようですが、ロシアは日本の要求には応じず交渉決裂となり、御前会議でロシアとの開戦が決定されます。

 山縣有朋は大本営、陸軍参謀総長兼兵站総監に任じられ、戦争指導の中枢を務めることになります。ロシアは旅順に要塞を築き日本陸軍を迎え撃とうとしていたので、地上戦では旅順要塞をどう陥落させるかが問題となりました。

 そのためには、まず203高地を奪取し、旅順を包囲してしまう、と言う作戦を山縣有朋は考えました。これが激烈を極めた203高地の争奪戦です。そして遂に兵士の信頼が厚い乃木希典大将の部隊が203高地の占領に成功します。

 また日本海では海軍の東郷平八郎大将率いる連合艦隊が「敵前大回頭(急転回で左に曲がり敵に戦艦の横部分を向ける作戦。敵弾が当たる確率が高くなるが、横からの砲撃の方が数多く撃つことができる)」でバルチック艦隊を破り、日本は勝利します。山縣有朋はこの勝利で公爵に任ぜられ「明治天皇の臣下として最高の名誉」を得ることとなります。

西園寺政権の発足

 山縣が日露戦争を指揮している最中、桂太郎首相は政友会と密約を交わし、政権の維持を画策しましたが、これが山縣有朋に知れてしまい激怒を買います。「侯爵西園寺公望」が首相になることで何とか決着はつきましたが、以降、山縣有朋は桂太郎、政友会に不信を抱くようになってしまいます。

 しかし山縣有朋も、もう68歳であり、「元老」となっていました。もう実務に付く年齢ではありません。しかし桂太郎と西園寺公望総裁の政友会が権力を握る内閣は軍縮や公式令による軍令における首相権限の強化などを進め、山縣有朋の望まない方向に動いていこうとしたために、山縣有朋は自分の意見を明治天皇に上奏し、また井上馨ら、他の元老を動かし西園寺内閣の施政に対し妨害工作を行います。

 当時、内務大臣であった原敬は、これらの妨害工作を「種々の奸計」「陰険手段」と呼び、不快感をあらわにしています。原敬はのちに首相となり、見事な政治手腕で諸問題を解決に導き、日本と言う国を大きく前進させた人物です。その原敬をして不快感を表明させた、ということは実は「時代はかわりつつあった」のです。

 明治という時代をコツコツと築き上げてきた山縣有朋も、そろそろ「老害化」してきたのです。この「老害化」した時期の山縣有朋のイメージが、実は現代に伝わる山縣有朋の悪役イメージに大きく貢献していると言って間違いないでしょう。

 既に山縣有朋の活躍した明治という時代は終わりを迎えていたのですが、山縣有朋はそれに気づかず、その後も色々な意見や動きを行ったのです。しかし、それは既に時代には合わないものでした。ですので、段々と政治の中心メンバーは山縣有朋を遠ざけるようになっていきます。

 つまり「晩節を汚してしまった」のです。しかし見る目は確かだったらしく、ずっと後のことですが、原敬が首相となった時、その采配の見事さに山縣有朋は感心しています。

 そして大正11年(1922)2月1日13時30分、肺炎と気管支拡大症のため、小田原の別邸・古稀庵において山縣有朋は逝去します。享年85歳でした。大正天皇は彼は国葬に付することにしましたが、運悪く1か月前に大隈重信の「国民葬」があり、大隈重信ほど一般民衆には人気がなかった山縣有朋の国葬は、当日が雨ということもあり、集まる人も少なく寂しく行われる結果となりました。

 彼の人生は何故か「運が悪いことばかり」なのです。明治の元勲として陸軍と地方自治の基礎を築き、結果的に諸藩の困窮した武士達に職を与え、新しい政治体制を日本と言う国に浸透させた山縣有朋ですが、残念ながら晩節を汚してしまったために「悪役イメージ」が根付いてしまったと言えるでしょう。

 ですが、彼のしたことは地味ながらも「大変な偉業」であったのです。特に地方自治制度を確立させた功績は大きく、これが日本と言う国が近代国家になる基礎になったと言っても良いのです。そして、それが必要であることが分かっていたのは山縣有朋だけだったのです。

 もし、彼がいなかったら日本と言う国は、明治維新の混乱が続き、近代国家への歩みは、もっと遅れることになったでしょう。そうなったら「今の日本は無かった」のかも知れないのです。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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