明治時代に認められた大友皇子…失われた天皇の真実

弘文天皇の像(出典:wikipedia)
弘文天皇の像(出典:wikipedia)
 皇極4年(645)、乙巳の乱で蘇我氏を滅亡させ、大化の改新の中心的存在だった中大兄皇子は、天智15年(668)に近江大津宮にて、第38代天智天皇として即位しました。彼の嫡皇子として父の後を継ぐ地位にあったのが、大友皇子(おおとものおうじ)です。

 天智天皇の補佐役として太政大臣も務めた大友皇子ですが、実は長らく天皇として認められなかった背景があります。歴史の教科書では「弘文(こうぶん)天皇」ではなく、「大友皇子」として記されていることが多く、弘文天皇と大友皇子が同一人物だと知らない人の方が多いのではないのでしょうか。

 歴代の天皇に名前が列せられているのにも関わらず、悲劇の皇子としての印象を強くしているのには、どのような歴史的背景があったのでしょうか? 大友皇子の人物像に迫っていきます。

大友皇子の人物像

 大友皇子は、第38代天智天皇と伊賀采女宅子娘(うねめやかこのいらつめ)の第一皇子として、この世に生を受けます。天智10年(671)に天智天皇の補佐役として太政大臣の地位に就き、近江朝を支える存在となりました。

 大友皇子について触れた資料は『日本書紀』や『懐風藻(かいふうそう)』など、非常に限られていますが、彼はどのような人物だったのでしょうか?

 『日本書紀』には、大友皇子(弘文朝)についての所見は見られません。一方で日本最古の漢詩集『懐風藻』には、大友皇子の人となりについて、「博学で多方面に通じておられ、文芸武芸両方に秀でている」と表現されています。また、唐からの使者は「風采・骨柄などは人並み外れており、この国だけを治める器にはない」というふうに賞賛しています。
 
ちなみに『日本書紀』は国家事業として、大海人皇子(後の天武天皇)の皇子が編纂した国の正史であるのに対し、『懐風藻』は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船が編んだとされますが、確証はありません。

※参考:天智天皇、天武天皇の略系図
※参考:天智天皇、天武天皇の略系図

天智天皇が恐れた「壬申の乱」はなぜ起きた?

 天智10年(671)12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御されました。亡くなる前、天智天皇は弟の大海人皇子に譲位を申し出ましたが、大海人皇子は固辞したと伝わっています。
 
 大海人皇子に後を継ぐよう依頼したのには、後々、大海人皇子と大友皇子の間で皇位継承の争いが起こるのを避けるためだったと推測されます。大海人皇子は当然それを察していたのでしょう。天智天皇からの申し出を辞退して、さらに沙門に入ることの許しを得た上で、剃髪して吉野に移り住むことになりました。
 
「虎に翼をつけて放したようなものだ」

 世間ではこのように評されました。たとえ沙門に入った身とはいえ、大海人皇子がこのまま吉野の地で大人しくしているはずがない── というふうに後に起こる壬申の乱を予感していたのかもしれません。
 
 大海人皇子が皇位継承を辞退したことで、大友皇子が次期天皇を継ぐことになりました。一説には、当初は大海人皇子を次の天皇にすべく、兄弟間で約束を交わしていたという話も伝わってきています。しかしながら、自分の子供可愛さに、大海人皇子との約束を破って、大友皇子に後を継がしたというのです。
 
 乙巳の変を始めとして、妻の一族を滅ぼすなど、自分が決めたことを強引に推し進める性格であったと言われている天智天皇なら、無理やり自分の望むように皇位継承を推し進めた可能性は否めません。こちらの説が真相であるとするならば、一旦は吉野に身を引いた大海人皇子が、皇位継承の機会を待って挙兵するに至ったという動機としては十分説得力があると感じられます。
 
 大友皇子は天智天皇崩御の2日後に近江大津宮で皇位を継ぎ、第39代弘文天皇となりました。しかし、在位はわずか半年と短く終わりました。周囲からのすすめもあって吉野で挙兵した大海人皇子に攻められ、弘文天皇の最期は自ら命を絶ったと伝わっています。
 
 壬申の乱は表には皇位継承争いと伝わっていますが、天智天皇の強引な政策や外交政策の失敗など、天智朝に不満を持つ豪族などが大海人皇子側について、政権脱却を計った戦争だという見方もできます。

 『日本書紀』にも弘文天皇紀はもともとは存在していたようですが、天武朝で国家プロジェクトとして編纂にあたった舎人親王が、父である天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうという意図があったようです。弘文天皇紀の記事の削除という流れに至ったことで、大友皇子が弘文天皇として即位したことが長らく歴史の表舞台に出ることはなくなってしまいました。 

長い時を経て、追諡された弘文天皇

 弘文朝は、実は明治時代に至るまで、正式な天皇として認められてきませんでした。その背景として、国の正史である『日本書紀』に記述が残されていない点や、天智天皇が崩御されてから、壬申の乱による敗死までその治世は半年と短かったため、即位に関連する儀式が行えなかった点があげられます。
 
 明治時代に入り、有識者によって大いに議論され、ついに明治3年(1870)7月23日に、明治天皇より、「弘文天皇」と追諡(ついし。死後におくりなを贈ること)され、第39代目の天皇として、正式に歴代天皇の一人に数えられるようになりました。

 大友皇子が天智天皇の後を継いで即位していたのなら、壬申の乱は、現職の天皇に対する反乱であったというふうに歴史に刻まれてしまいます。それを ”分が悪い” としてどうしても避けたかった大海人皇子側の意図が見え隠れしているようにも感じます。

 正式な天皇として名を連ねた弘文天皇の墓所は、最終的には明治10年(1877)に、大津市御陵町にある園城寺境内の亀岡古墳が明治政府によって「弘文天皇長等山前陵」として正式に認定されるに至りました。

滋賀県大津市にある、弘文天皇 長等山前陵(出典:wikipedia)
滋賀県大津市にある、弘文天皇 長等山前陵(出典:wikipedia)

おわりに

 大友皇子は、大海人皇子側が次々と味方を打ち破り、兵力を増やしながら進軍してくる様子を見て、自軍に勝ち目のないことを悟りました。そして現在の大津市の瀬田川にかかる瀬田の唐橋のすぐ近くで自ら命を絶ったと伝えられています。
 
 後に大友皇子の子である大友与多王が慰霊のために創建したのが現在の御霊神社だと伝わっています。この神社の御祭神は弘文天皇で、明治10年に明治政府が弘文天皇の墓所と定める際の候補地の一つにもなりました。
 
 御霊神社以外にも、実は弘文天皇を祀るお社が大津市内にも2社存在していたり、愛知県や千葉県に至るまで、大友皇子が生き延びたという伝説が各地に残されています。
 
 源義経や明智光秀などのように、時代に愛された人物は同様に、各地に生き延びて命を繋いだとの伝説が各地に残されていることから、大友皇子も悲劇の皇子としてその不運を悼み、人々から愛され、代々長きにわたり魂の鎮霊が続けられているのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 江口 孝夫「懐風藻」(講談社学術文庫、2000年)
  • 倉本一宏「持統女帝と皇位継承」(吉川弘文館、2009年) 
  • 「読める年表 日本史」(株式会社自由国民社)
  • 「日本古代史辞典」(大和書房)

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  この記事を書いた人
天海りょう さん
レイキヒーラー、気功師師範代、タロット占い師、WEBライターとして活動中。依存させないタロット占い師を育成しながら、タロット占いに関するメディアの監修にも従事。大学では日本中世史専攻。中世の情報伝達手段について研究。宮中祭祀を現代に伝える白川学館にて上代和語・言霊・古神道の研究しており、電子書籍執筆 ...

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