「吉野作造」大正デモクラシーの理論的指導者 彼が唱えた”民本主義”とは?

吉野作造の肖像写真(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">国立国会図書館「近代日本人の肖像」</a>)
吉野作造の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
 近代日本の思想家、吉野作造(よしの さくぞう)を象徴するキーワードといえば、「民本主義」と「大正デモクラシー」でしょう。「民主主義」ではなく、「民本主義」です。これがどのような背景から生まれてきた思想なのかは後述するとして、先に「大正デモクラシー」と彼の関係をまとめてみましょう。

 折から1910年代の海外では、中国辛亥革命、ドイツ革命、ロシア革命といった政治運動が次々に成功を収めていました。日露戦争後の日本においても国家主導一辺倒ではない、大衆が自由を求める傾向が強まります。こうした背景から、大正時代に日本で興った民主主義的な運動を総括して「大正デモクラシー」と言います(ただし厳密な定義および時期については今日でも議論の対象であり、複数説があります)。

 大正デモクラシーの運動の中での大きな課題は、既に確固とした「大日本帝国憲法」が機能していた日本の政治に対し、どのように、あるいは、どこから民主的な制度を盛り込んでいくか、ということでした。憲法を是とするにせよ批判的に見るにせよ、まず憲法への態度表明をどうするかが重要でした。

 吉野作造が提示したビジョンは、今でいう立憲主義の考え方です。つまり、大日本帝国憲法を尊重し、それによる政治体制を維持したままではあるけれど、民主的な政治参加は可能である、とする考え方です。

 彼の死後、大正デモクラシーなどはどこ吹く風とばかりに、日本は権威主義的な道を歩むことになります。終戦によってその体制が倒れ、日本国憲法が制定されてからは、今度は逆に吉野作造の考えていたような思想は、「戦後民主主義」からすると物足りなくなります。


 ともあれ、再び日本政治が激動の中にある昨今において、改めて吉野作造の考えていた政治の姿を振り返ってみるのも、何かのヒントになるのではないでしょうか。この記事では、そんな吉野作造の生涯とともに、「民本主義」についても解説したいと思います。

少年時代の作造

 吉野作造は明治11年(1878)、宮城県の古川に生まれました。

 幼い頃より秀才で知られていた作造は、温和で喧嘩もしない、よくできた少年で、近所からは「吉野家の作さんのようになりなさい」と模範に引き合いに出されるほどであったといいます。

 作造が生まれた年は、明治政府軍と薩摩反乱軍とが「国のかたち」を賭けて激突した西南戦争の翌年にあたります。この内戦が終結した直後の世相は、勝利した側である明治政府の権力が屹立と存在感を高めていく時代に重なりますが、一方で敗北した西郷隆盛に対する同情の声や、内戦とは別の仕方で明治政府に「物申す」運動となった自由民権運動等への共感の空気も満ちておりました。

 宮城もまた、自由民権運動の一支流が息づく土地であり、作造少年は古川の田舎でそうした明治時代の空気を感じながら、育っていきました。

少年時代の吉野作造(1908年3月。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
少年時代の吉野作造(1908年3月。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

「憲政」の時代の中で

 西南戦争が落ち着いた後の時代に訪れたのは、伊藤博文らの世代に主導された「憲政」の時代でした。

 明治22年(1889)に公布された大日本帝国憲法を基盤に、藩閥政治を脱却し、政党政治への移行を重視したのがこの時代です。実際、長州閥の領袖であった伊藤博文自身が、立憲政友会という政党のリーダーに自ら収まり、「藩閥から政党へ」の旗振り役に名乗りを上げていました(もっとも、実際には薩長藩閥の力は、なんだかんだ残っていってしまうのですが)。

 伊藤博文が政党政治の旗を振るにあたって掲げたことは「農工商の者たちも広く政治に参加すべし」という思想でした。「農工商」といっても、伊藤の頭の中にあったのは、裕福で学のある上流層のしかも男性陣だけだったことは明白ですが、それでもわずか数十年前の江戸時代からすれば大前進でした。

 この時期、東京へ出ていた吉野作造は、数学や哲学へ興味を持ったり、キリスト教に憧れて入信をしたりとさまざまな経験を経ながらも、しだいに政治学に惹かれていくことになります。

 明治33年(1900)、作造は東京帝国大学法科大学に入学。恩師であるキリスト教牧師の海老名喜三郎が出していた思想誌『新人』の編集に参加し、政治思想の世界に目覚めていくことになります。

日露戦争と「立憲政治」

 やがてロシアとの緊張が高まり、日露戦争(1904~1905)が勃発。若き作造を含め、当時の知識層の若者たちは多かれ少なかれ、対外戦争とそれを主導する国家の在り方についての熱い議論に巻き込まれていくことになります。

 この時期、作造は大杉栄らが指導していた社会主義運動にも接近していました。しかし後から振り返ると、作造にとって、社会主義運動の活動家たちとの交流はあくまで修養期間の体験のひとつであったと思われます。社会主義の視線は吸収しつつも、その運動に熱くなりすぎることはありませんでした。

 後年の回顧の中で、「資本家をとにかく悪とみなし、その悪を取り除けば社会の問題が解決するという素直すぎる認識にどうしても疑問を持った」という意味のことを残しています。

 日露戦争まっただなかの明治38年(1905)、作造は雑誌『新人』に、「本邦立憲政治の現状」という論文を載せます。ここにおいて「議会が政府の行動を監督する立場に立つ」ことと、「その議会が人民の意見を代弁する機能を有すること」の二点を強調しています。まとめれば、代議士制議会の機能に大きな期待と責任を負わせる民主政治観でした。

 現代においてはまったく奇異に映ることのない意見かと思いますが、まだまだ国家権力が人民を指導するという発想が根強いこの時代においては、こうした代議士制への期待の明確な表明だけでも、十分に挑戦的なものでした。

大正デモクラシーの到来

 日露戦争終結直後の吉野作造は、大学教員のポストを求めていましたが、なかなかその希望が叶わず、経済的に不安定な地位にありました。

 そんな彼に意外な話が持ち上がります。中国の袁世凱に招待され、彼の長男の家庭教師としての職を得たのです。この申し出を承諾し、家族と一緒に天津に越した作造は、近代中国の政治社会に触れ、大きく知見を深めることになります。

 もっとも、袁世凱の家族との付き合いでは、金銭的な条件面での食い違いなど、いろいろと一筋縄ではいかない想いもした模様ですが…。

天津時代の吉野作造(1908年3月。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天津時代の吉野作造(1908年3月。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 そして中国から帰ってきた作造に、今度はヨーロッパ留学の話が舞い込みます。時代が明治から大正に変わる中、彼は明治43年(1910)から大正2年(1913)までヨーロッパで見聞を深め、帰国後にはいよいよ東京大学で政治学の講義を担当することとなりました。

 そんな中、日本では大正デモクラシーの気運が高まり、藩閥政治の打倒、普通選挙の要求、男女同権の推進等のラディカルな議論がおおいに巻き起こっていました。

 作造は雑誌『中央公論』を舞台に民本主義を強く打ち出し、衆目を集めます。時代の熱気と合流して、吉野作造は瞬く間に、大正デモクラシーを代表する論客として認知されたのでした。

民本主義とは何か

 吉野作造が提示した「民本主義」について整理しましょう。

 作造がこの考え方を打ち出した代表的な論文は、

「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」

という文章です。

 これは岩波文庫の『吉野作造評論集』に収められているため、興味のある方は図書館で誰でも読めるようになっています。雑誌に寄稿した論文ゆえ、それほど長いものでもありません。この論文は、まずは憲法の重要性を強調するところから始まります。

 憲法は、「他の法律と異なり、普通の手続きでは変更できない」ものであり、憲法こそが政治家も軍も、そして天皇をも規定する、国の土台となります。その「憲法」の権威と力は誰が支えているのか。それが民衆である、という構図となります。

 作造があえて「民主主義」という言葉を使わない理由も、同論文に書かれています。「民主主義といってしまうと、国家の主権は人民にあり、といった学説と混同されてしまうため」、民本主義という言葉を使っているというのです。

 そもそも民主主義というと、天皇を頂点とした君主制のニュアンスがなくなってしまいます。そこで天皇を頂点においた君主制を支えつつ、しかし、政治権力が憲法どおりに機能しているかを監督する民衆の力に期待する構想を表現するために、「民本主義」という訳語を採用したようです。

 民衆のそのような力を機能させるものが代議士達による「議会」である、と説明されています。大日本帝国憲法の枠組みを活かしたままに、しかし議会に大きな監督力を期待し、そのための「選挙」への民衆参加を要求する思想で、たとえば同時代の美濃部達吉の「天皇機関説」とも相性のよい、大正時代の状況に即したデモクラシー理論でした。

おわりに

 大正時代が終わり、昭和時代になっても、吉野作造の活動は衰えを知りませんでした。ただし残念なことに、昭和8年(1933)、彼は55歳で脳膜炎の為に急逝してしまいます。小説家の芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」を抱えて自殺してから6年、世界大恐慌が始まってから4年、満州事変が始まってから2年のことでした。

 彼が同時代人として経験した筈の大正デモクラシーの活気が急速にしぼんでいく時期での急死でした。ひとつの時代を終え、役割を終えたタイミングにふさわしい死期とも捉えられますが、もしその後の日本を見ていたら、どのような感想を持っていたのか、ぜひ聞いてみたい方と言えるかもしれません。

 時代が変わり、日本国憲法下の社会になると、吉野作造が民本主義を展開していた時代とは状況がまるで変わってしまったというのが、正直なところです。ただし、かの太平洋戦争を終結に導いた「ポツダム宣言」には、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活」を行うべし、という一文があります。

 「日本国は軍国主義をやめて民主主義になるよう新規に努力せよ」ではなく、「もともとあった民主主義的傾向を、復活させよ」です。戦勝国側にも、戦争開始前の日本社会には民主主義的な運動があったことは前提として共有されていたと考えさせる一文です。

 いまだ、日本人でも明治・大正・昭和初期といえば民衆の出る幕はなかった時代と見る人も多いですが、吉野作造らに代表される「戦前の民主主義的傾向」の歴史と考え方をこの機会に見直してみるのも、たいへん有意義な気づきがあることかもしれません。


【主な参考文献】
  • 岡 義武 編『吉野作造評論集』(岩波書店、1975年)
  • 松本三之介『近代日本の思想家11 吉野作造』(東京大学出版会、2008年)
  • 三谷太一郎『大正デモクラシー論 吉野作造の時代』(東京大学出版会、2013年)
  • 田澤晴子『吉野作造 人世に逆境はない』(ミネルヴァ書房、2006年)

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  この記事を書いた人
瀬戸内ざむらい さん
現在は完全な東京人ですが、先祖を辿ると、いちおう、幕末の時に「やられた」側の、瀬戸内地方の某藩の藩士(ただし私自身は薩長土肥の皆様に何の恨みもありません!先祖の気持ちは不明ですが)。出自上、明治時代以降の近現代史に深い関心を持っております。WEBライターとして歴史系サイトに寄稿多数。近現代史の他、中 ...

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