※『名将言行録』より
永禄9年(1566年)、信長は美濃国の攻略のために斎藤氏と戦っていたが、墨俣川を隔てて攻略に苦戦していた。そこで信長は砦の構築(墨俣城)を考え、諸将らを集めた。
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砦を墨俣川の西に築いて、そこに将一人を置いて守らせようと考えておる。
家臣たち:ざわざわざわざわ・・・・
家臣たちは皆あやういと思い、誰一人として自分がその役目をしようと名乗り出る者はいなかった。
こうした中で信長が言った。
猿よ。そちはどうじゃ?
はっ!その塁は敵地に孤立しているゆえ、誰も行きたいとは申しません。
たとえ誰かが行ったとしても、その地形を十分に理解することも難しいかと。それに万が一負け戦となったならば、その後は誰も行く者はいないと存じます。
うむ・・
それゆえ、篠木・柏井・科野・秦川・小幡・守山などで、しかるべき者を選ばれるのがよいかと存じます。
また、かつてそれがしが美濃におりましたとき、そこの夜盗で名の知れた者と懇意にしておりましたゆえ、そういった者を使ってみてはいかがでしょうか。
これら夜盗の者を数えてみると、かの有名な蜂須賀小六ほか60余人もおり、その党に属している者は1200人にも及んだという。
うむ、わしもそういう者らがおるのは聞いて知っておる。だが、その者らの将を誰にすればよいのか・・。
誰もおりませんならば、ぜひともそれがしをその将にしてくださいませ!
家臣たち:ざわざわざわざわ・・・・
猿、よう言った!そちにまかせよう。
ははっ!ありがたきお言葉。
こうして秀吉は誰もが避ける危険な任務を自ら引き受け、墨俣一夜城の伝説を作ったのである。