「どうする家康」瀬名奪還作戦の功労者は誰? 一方、今川氏真が "馬鹿" と言われた理由とは
- 2023/02/06
永禄4年(1561)2月頃、松平元康(徳川家康)と織田信長は盟約を結びます。織田と結んだ元康は、東三河に侵攻し、今川方と戦を繰り広げます。これは、同年4月の中旬頃からと言われています。現在の愛知県豊川市や新城市などにおいて、戦が展開されたのです。これは、駿河の今川氏真にとっては、元康の「逆心」であり、怒り心頭だったに違いありません。
駿府には、元康の妻・築山殿と子(竹千代、後の信康)がおりましたが、元康の裏切りにより、今川家中から「竹千代を殺せ」という声も上がっていたようです(『三河物語』)。しかし、竹千代は、今川重臣・関口氏純(築山殿の父)の孫ということで、殺されることはありませんでした。
大河ドラマ「どうする家康」第5回「瀬名奪還作戦」では、駿府に捕らわれている瀬名(築山殿)を、元康が、家中で嫌われている本多正信と、伊賀忍者の服部半蔵を使い、奪い返そうとする様が描かれました。が、『三河物語』や『徳川実紀』において、築山殿と竹千代の奪還に功績があったのは、元康の臣・石川数正であると記されています。
永禄5年(1562)2月、元康は上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻めて、城主の鵜殿長照を討ち取るのですが、その際、長照の子供2人を生け取りにするのです(『三河物語』)。ちなみに『徳川実紀』には、長照が生捕りになったと書かれていますが、これは誤りでしょう。
『実紀』は、長照が今川氏に真近い縁であり、今川氏真が長照が捕虜になったことを心配したとあります。これは、長照の父・長持の妻が今川義元の妹であるということを指すと思われます。氏真が長照の身を案じているとの風聞を聞いた石川数正は、一計を案じ、駿府にいる若君(竹千代)と長照兄弟を取り換えて(人質交換)、竹千代を取り返そうとしたと『実紀』には記されています。この謀は成功したので、数正は家中からも一目置かれたようです。一方、『三河物語』では、数正は、今川に若君殺害の気運あるとして、若君を一人で殺させてなるものかと、駿河に下ったとあります。この勇気ある行動に、身分の高い者も低い者も感動したようです。
そうしたおり「鵜殿長照の子と人質交換しよう」との話が持ち上がり、若君と築山殿は岡崎に入ることになるのです(『三河物語』の場合は、数正が謀をしたとは書かれていません)。竹千代に付き添い、岡崎に戻る数正。数正は大きな八の字髭をそらし、若君を自分の鞍前に乗せ、堂々と帰還したとのこと。数正も感慨無量だったでしょう。
今川氏真は長照の子と竹千代を交換してしまいますが、それについては「阿呆か」「バカ者か」という評判が立ったようです。少し大仰な表現になるかもしれませんが、氏真は掌中の「玉」を落としてしまったと言えるでしょう。
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