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武田信玄と上杉謙信の後継者問題は対照的・・・だが共通点も?
- 2023/05/09
一代で名をなした戦国大名にとって、その家をどう継いでいくのかは、お家存亡にもかかわる大事な決めごととなります。最強のライバル同士と言われた武田信玄と上杉謙信も、後継者問題と無縁だったわけではありません。
後継者という視点から、信玄と謙信の最期やその後について考えてみます。
後継者という視点から、信玄と謙信の最期やその後について考えてみます。
二人とも最晩年の最大の敵は「織田信長」
武田信玄は大永元年(1521)生まれ、上杉謙信は享禄3年(1530)生まれで、9歳離れています。死去したのは、信玄が元亀4年(1573)で享年53歳、その5年後の天正6年(1578)に謙信が49歳で亡くなりました。信玄と謙信といえば、川中島での5度にわたる戦いが有名で、なかでも永禄4年(1561)の八幡原の激突は、戦国史上屈指の名勝負と言われ、信玄と謙信が一騎打ちをしたとも伝えられています。
ただ、両者が直接対決したのは1560年代までで、70年代に入ると織田信長という共通かつ最大の敵が立ちはだかってきます。信玄の死も、謙信の死も、まさに信長と対決している最中に起きた出来事だったのです。
信玄死す…後継者勝頼に武田家を託す
武田信玄には、正室の間に義信という嫡男がおり、川中島の戦いのころは義信が武田家の後継者として認知されていました。しかし、今川家への侵攻をめぐって対立し、ついには義信を自害へと追い込んでしまったのです。後継者を失ったかに見えますが、信玄はすぐに手をうちます。側室の子で諏訪家を継いでいた勝頼を後継者に据えたのです。ただし、武田家を継ぐ当主は勝頼の子である信勝とし、勝頼は便宜上「後見の立場」となっていました。
信長や徳川家康と対決するため、西上作戦を進行させていた信玄ですが、その途上で病に倒れてしまいます。後継者の勝頼と重臣たちに「我が死を3年隠し、国力を養え」と遺言してこの世を去ります。
信玄の遺言を守るため、勝頼の家督相続に表立って異を唱える者はありませんでした。
謙信死す…二人の後継者候補が激突
上杉謙信は、史実に表されるような正室も側室もおらず、実子をもうけていません。謙信が妻帯しなかった理由は諸説ありますが、いずれにしろ、養子縁組をすることで後継者を育てようとしたのです。謙信が後継者の候補に選んだのは二人とされています。一人は、姉が嫁いだ長尾家から来た景勝で、謙信とは叔父、甥の関係になります。もう一人は、北条氏と和睦する中で人質として送り込まれた景虎で、北条氏康の子です。
謙信は死の前年、加賀や能登で織田勢と戦います。そして、次の軍事行動を起こそうと準備していた矢先、突然意識不明に陥り、そのまま死去してしまいました。
謙信自身も、この時点で自分が死ぬとは思ってもいなかったのでしょう。後継者を指名していなかったため、景勝と景虎の後継者争いが勃発するのです。
後継者のその後…明暗を分けた両家
武田勝頼は、信玄の後継者として揺るぎない立場にいたのですが、重臣たちをまとめ上げることができず、天正3年(1575)の長篠の合戦で織田・徳川軍に大敗し、信玄を支えてきた歴戦の勇士たちを数多く失ってしまいます。後継者問題に万全を期した信玄でしたが、結果的に戦国大名・武田家は、天正10年(1582)に織田軍によって滅ぼされてしまうのです。
上杉家の後継者の座を巡って対立した謙信の二人の養子は、天正6年(1578)の謙信の死の直後、家臣団を二分する軍事衝突(御館の乱)を起こします。その結果、上杉景勝が実力で後継者となるのですが、この争いで上杉家の力がそがれたことは間違いありません。
しかし、後継者争いを勝ち抜いた景勝は、戦国時代と天下統一の荒波を何とか乗り切り、徳川幕府の外様大名として命脈を保っていくのです。
おわりに
信玄と謙信の例は、戦国大名にとって後継者を指名すること、そして後継者がお家を守ることが、いかに難しかったかを物語っています。その両方を抜かりなく成し遂げた徳川家康と後継者の秀忠が、250年以上続く幕府を築き上げたのも、うなずける気がします。※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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