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龍馬だけじゃない!明治の世を見ずして去った沢村惣之丞

 幕末の英雄である坂本龍馬は、文久2年(1862)春、閉塞感ばかりの土佐を脱藩しました。この時、龍馬と共に脱藩という「決死の旅路」をした志士がいたことをご存じでしょうか。

 その名は「沢村惣之丞」と言います。龍馬の同志だった惣之丞の生涯をたどってみました。

沢村惣之丞とは何者か

 沢村惣之丞は、天保14年(1843)に土佐藩に生まれました。惣之丞の身分は武士のなかでも最下層とされる地下浪人で、幼いころから土佐藩独特の上士と郷士という身分差別を味わってきたのです。

 土佐藩で塾を開いていた間崎哲馬に師事し、武市瑞山が主宰する土佐勤皇党にも参加。同塾だった吉村虎太郎とともに、文久2年(1862)に土佐藩を脱藩し、長州藩へと潜入します。ところが惣之丞は、間もなく土佐に帰国したのです。

 脱藩は重罪で投獄されてもおかしくなかったのですが、武市に現状報告をするための帰国だったとされることから、惣之丞自身は脱藩したつもりでも、藩からは脱藩とみなされなかったのかもしれません。

龍馬と共に歩んだ幕末

 このころ、土佐勤皇党員だった坂本龍馬は武市の考え方と合わず、自らの道を進むため脱藩を決意します。命がけとも言える龍馬の脱藩に同行したのが、戻って来たばかりの惣之丞だったのです。

 龍馬にとっては格好の道案内役となってくれましたし、惣之丞も7歳年上の龍馬から学べることは多かったでしょう。惣之丞はのちに、龍馬との脱藩ルートを「関雄之助口供之事」として伝えています。

 龍馬と惣之丞は、勝海舟の神戸海軍塾で一緒に学び、惣之丞は龍馬の側近として活動を共にしていきます。龍馬が作った亀山社中(海援隊)では、中軸メンバーの一人として龍馬を支えてきたのです。

惣之丞を襲った悲劇的事件

 慶応3年(1867)11月15日は、惣之丞にとっても運命の日となりました。龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのです。惣之丞は尊敬すべき兄貴分である龍馬を失ったことで、海援隊を背負っていかなければならないとの思いにかられたでしょう。

 翌慶応4年(1868)、長崎で治安維持にあたっていた惣之丞は、誤って薩摩藩士を銃殺してしまいます。薩摩藩と土佐藩は友好関係にあり、「討幕戦争のさなかに禍根を残してはいけない」と惣之丞は思い悩みました。

 惣之丞に過失責任はあったとしても、何かを意図した事件ではありません。しかし、惣之丞は死をもって謝罪することを申し出て、潔く切腹して果てたのです。享年26歳。豪放磊落な男だったと言われる惣之丞のあまりにも短い生涯でした。

おわりに

 徳川慶喜の信頼が厚かった幕閣である大久保一翁は、勝海舟に紹介された沢村惣之丞を見て「龍馬と並ぶ具眼の士」と語っています。物事の本質を見抜き、是非や真偽などを判断する見識の持ち主だと評価しているのです。

 惣之丞本人が直接この言葉を耳にしていたかどうかはわかりません。しかし、尊敬する坂本龍馬と「並ぶ」と評されたことは、惣之丞の自信になったでしょう。それだけに、明治の世を見ずして去った若き才能の持ち主を惜しんでやみません。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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