幕末にはこんなアウトローも!? 動乱の時代に活躍していた侠客たち
- 2023/07/25
多くの尊王攘夷志士や浪士たちが活躍した幕末。江戸幕府倒壊間近の動乱に身を投じた人々の中には、いわゆる「侠客」と言われる人々もいた。火消しの辰五郎、会津小鉄、清水次郎長、黒駒勝蔵など、世の中の規範から外れた、いわばアウトローの彼らは、彼らなりの義に基づいた行動を起こしていたのである。
しかし明治維新後、ある者は処刑、ある者は称賛されつつ生涯を全うするという、真逆の人生が待っていた。その違いは何だったのか。今回は歴史に隠れた侠客の生きざまを見ていこう。
しかし明治維新後、ある者は処刑、ある者は称賛されつつ生涯を全うするという、真逆の人生が待っていた。その違いは何だったのか。今回は歴史に隠れた侠客の生きざまを見ていこう。
【目次】
戊辰戦争にも参戦 火消しの親分・新門辰五郎
時代劇でもよく見かける火消しの親分と言えば、「め組」の辰五郎だが、実際の辰五郎は「を組」である。威勢の良い掛け声と粋ないでたち、いざ火事がおこれば命を懸けて江戸の町を守る火消しは、江戸っ子の花形職業だった。その中でも最も有名なのが、新門辰五郎(しんもん たつごろう)である。 父を火事で失ったことが遠因だったのかはわからないが、火消しという道を選んだ辰五郎は、典型的な江戸っ子で才覚にも優れ、大名火消し相手でも決して引けを取らない肝の太さを持っていた。その器量は、「を組」の頭領・仁右衛門に認められ、めでたく娘婿となる。火消しとしてさまざまな大活躍をした彼はいつしか浅草の大侠客としても名をはせるようになり、あの勝海舟とも交流した。
慶喜と辰五郎
辰五郎は、勝の主君であった徳川慶喜とも顔なじみとなり、辰五郎の娘・芳は慶喜の妾になっている。慶喜は辰五郎を「じじい」と呼び、側近くに置くこともあったとか。そんな関係が広く知られたのは、文久3年(1863)、慶喜が上洛する際に辰五郎が子分約300名と共に付き従ったときではないだろうか。京の人々は、江戸火消しの粋でしゃれた姿に、新鮮な驚きを覚えたことだろう。辰五郎は、京・大阪でも火消しを任されるようになり、ますます名声が高まっていく。しかし、幕府の勢いは次第に衰えていった。
慶喜の忘れ物を届ける
慶応4年(1868)1月。鳥羽伏見の戦いが勃発したが、幕府軍は朝敵とみなされ、散々な敗戦を喫する。大坂城にいた慶喜は、夜陰に紛れて江戸へ逃げるために大阪湾の軍艦へ乗り込む。その中に辰五郎もいたのだが、なんと慶喜は「金扇馬印」を大坂城に忘れてしまったのだ。馬印とは、合戦場で大将の居場所を高らかに示すための大切なもの、まして家康以来の馬印、まさに徳川家の誇りだ。辰五郎は生死をかけて馬印を回収しに大坂城へ。しかし、無事に戻ってくると、すでに慶喜らが乗った軍艦は出航していた。そこで辰五郎、子分とともに馬印を立てて堂々と東海道を江戸まで戻ったのだ。
辰五郎を迎えた慶喜はいったいどんな顔をしていたのだろう。そして辰五郎は、慶喜に文句の1つも言ってやったのだろうか。「馬印を置き去りにするなんてぇ、とんだ将軍だ!」などと、一喝してほしいものである。
江戸焦土作戦
辰五郎の活躍はこれで終わらない。江戸無血開城に向けて、勝海舟が辰五郎に協力を要請したのは、江戸を火の海にするという途方もない作戦だった。もしも薩長軍が江戸を攻撃するなら、その前に江戸の町に火を放つというのだ。辰五郎をはじめとする江戸の火消しや侠客、とび職などがこの計画に参加していた。もちろんこれは、勝流の交渉術であり、結果的にはそのような作戦は実行されず、無事に江戸城が無血開城となったのであるが。上野戦争で火消し引退を決めた辰五郎
江戸ではその後、彰義隊と新政府軍(討幕軍)による上野戦争が起こる。辰五郎率いる「を組」は、上野寛永寺での消火活動に務めたが、凄まじい砲撃で伽藍のほとんどが焼失、辰五郎らも彰義隊とともに山を下った。将軍家墓所を守り切れなかったことで辰五郎は、火消しからの引退を決めたとされている。明治維新後の辰五郎
慶喜に請われた辰五郎は、一時静岡に移っていたが、旧知の清水次郎長に慶喜の警護を託し、再び江戸へ戻っている。そして明治8年(1875)、浅草の自宅において76年の生涯を閉じた。江戸と共に生きた火消し・侠客の新門辰五郎が残した辞世の句は、
「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼにどぶろくの味」
人生の最期に思い出すものとして、食べ物とともに女性を並べた、江戸っ子親分らしい一句だ。
会津藩士を埋葬した会津小鉄
会津藩の本陣が置かれていた洛東・黒谷金戒光明寺には、会津藩士の墓所がある。そのすぐそばの金戒光明寺塔頭・西雲院に会津小鉄(あいづのこてつ)こと上坂(こうさか)仙吉が葬られている。なぜ一侠客に過ぎない彼の墓がここにあるのか、それは幕末鳥羽伏見戦争前後にさかのぼる。
暴れ者小鉄
小鉄の生まれや育ちは詳しくわかっていないが、若いころから相当な暴れ者で、全身に80ヶ所もの刀傷があり、左手は親指と人差し指だけ、右手は小指と薬指が曲がったままで動かないという状態だったらしい。しかし、京都で勢力を拡大し、口入屋も営んでいたというから、組織を指揮する人望と才覚はあったのだろう。彼が会津藩と接点を持つようになるのは、会津藩主・松平容保が京都守護職として上洛してからのことだ。会津藩士用の屋敷普請のため、人足集めを請け負ったことがキッカケと言われている。会津藩を通じて新選組とも協力関係にあったという。
小鉄と会津藩と新選組
討幕派浪士制圧のためには的確な情報が必要である。博徒として顔が広かった小鉄は、この情報収集に最適な人物だった。新選組活躍の裏には、小鉄たち侠客の活動も役立っていたのだ。また、禁門の変(1864)などの大きな戦においては、軍夫の手配も必要になる。これを請け負っていたのも小鉄たちである。こうして次第に会津藩とのつながりが深くなるにつれ、小鉄はいつしか「会津小鉄」と呼ばれるようになっていた。会津小鉄の名は、討幕派にも知れ渡っていたらしく、小鉄が会津藩士と談合中に討幕派に襲われるという事件もあった。
ある時、小鉄は1人の浪人を切り殺してしまい、入牢する。これを助けたのは、会津藩だ。会津藩にとって小鉄はそれだけ必要で有益な人物だったと考えられる。
会津藩士の埋葬
慶応4年(1868)1月、会津藩とともに鳥羽伏見の戦いに臨み、ともに大坂へ敗走していた(諸説あり)小鉄が京に帰ってきたとき見たのは、放置された会津藩士・桑名藩士の遺骸だった。当時、賊軍となった彼らを勝手に葬ることは、彼らの協力者とみなされるため、タブーとされていた。しかし小鉄は、放置されていた遺体を埋葬し、遺品を回収した。この時の埋葬先が、現在、金戒光明寺内にある「会津藩殉難者墓地」である。
小鉄は、回収した遺品を会津まで届けたとも伝わる。すでに討幕軍があふれている会津までの道のりを、彼は強い任侠心で歩み続けたのだ。このことは、会津藩だけでなく多くの人々の心に残った。
明治維新以後の小鉄
明治になると、小鉄は博徒の上坂音吉から盃をもらい、上坂仙吉と改名している。その後賭博により逮捕、入牢。明治17年(1884)に出獄したときは、7000人以上の人が迎えたという。翌年3月19日、小鉄は京都市下京区の病院で亡くなった。おそらく52歳か53歳だったと思われる。一説にはヒ素による毒殺とも言われている。彼の葬儀には、1万3000人余りが会葬した。小鉄と会津藩は、わずか5年ほどの関わりだったにもかかわらず、彼の墓地が金戒光明寺にあるのは、それだけ会津藩との関係が深かったということであろう。
幕府軍の遺体の埋葬は清水次郎長や柳川熊吉も!?
賊軍となった旧幕府軍の遺体を埋葬した侠客は、会津小鉄だけではない。野ざらしにされた遺体を見るに見かねた彼らは、その義侠心のままに行動した。清水次郎長
海道一の大親分・清水次郎長といえば、最も有名な侠客のひとりである。 明治元年(1868)9月18日。旧幕府軍の榎本艦隊咸臨丸は、台風に遭い、清水港に避難していた。そこへ新政府軍の軍艦が攻撃を仕掛ける。白旗を出して無抵抗だった乗組員に対し、新政府軍の攻撃は止まず、咸臨丸に残っていた20人余りが殺害され海中に捨てられたのだ。
しかし、新政府軍を恐れて遺体はそのままに。次郎長は、夜陰に紛れて遺体を収容した。それをとがめた新政府軍に向かって次郎長は言い放った。
「人間死ねば誰もが仏、仏に官軍も賊軍もねえ」
遺体を埋葬した場所には、旧知の山岡鉄舟(旧幕臣)が揮ごうした「壮士墓」が建立されている。
柳川熊吉
柳川熊吉は、新門辰五郎の子分となったのち、箱館に渡って博徒の親分として名をはせた人物である。明治2年(1869)5月。箱館戦争が終結した後、町のあちこちに賊軍・旧幕府軍の遺体が放置されていた。熊吉は実行寺住職の松尾日隆の協力を受けて、子分らとともに、遺体を収容、市中の寺院に埋葬する。その数は700体以上にも及んだという。この行為により熊吉は、明治政府に捕らわれ、斬首刑になるところだったが、薩摩出身の軍監・田島圭蔵の弁護により助かっている。
明治4年(1871)、熊吉は元箱館政府総裁の榎本武揚や大鳥圭介の援助を受け、函館山に土地を購入する。そしてここに旧幕府軍の遺体や遺骨を改葬し、慰霊碑を建てた。
「義に殉じた武人の血は、3年たつと碧色になる」という中国の故事にちなんで名づけられたこの「碧血碑」の整備をしながら、晩年を暮らした熊吉は、大正2年(1913)12月7日、88歳で亡くなっている。
博徒には珍しく、刺青もなく、酒もたばこもやらない人だった。
新政府軍に協力も、のちに裏切られた黒駒勝蔵
黒駒勝蔵(くろこまの かつぞう)は、清水次郎長の仇役として時代劇にもよく登場する人物である。甲州の博徒同士の争いは、血で血を洗うようなすさまじい抗争となり、とうとう勝蔵は手配書が出回る身となる。甲州を離れた勝蔵は、明治維新前夜の動乱の中で、「小宮山勝蔵」の変名で官軍の草莽隊(正式の官軍ではなかったとされる)赤報隊に入隊する。赤報隊は、大政奉還後の江戸において、旧幕臣を挑発する工作活動(陣屋襲撃など)を行なっていた。
しかし、赤報隊は ”偽官軍” という汚名を着せられ、解散。隊長の相楽総三は処刑され、勝蔵と同じ博徒の水野弥太郎も捕縛され、のち獄死している。赤報隊解散後の勝蔵は「池田勝蔵」と名を変え、京に向かう。そこで駿府鎮撫総督徴兵七番隊に所属、戊辰戦争に従軍した。
戊辰戦争後は東京第一遊軍隊に所属していたが、隊が解散すると、勝蔵は甲州に戻り、金山採掘の事業に着手する。ところが、明治4年(1871)2月、伊豆蓮台寺温泉で湯治をした帰りの勝蔵は、突然捕縛される。その理由は、第一遊軍隊からの脱退と元治元年(1864)に勝蔵が起こした殺害事件の容疑である。同年10月14日、勝蔵は甲府の山崎処刑場で斬首された。享年39歳。
遊軍隊からの脱退は処刑されるほどの重罪ではない、また今更7年も前の殺人を裁くのも妙な話である。おそらく、新政府軍にとって勝蔵は、もう利用価値なしと見られたのか、もしくは生かしておくと危険だとみられたのではないだろうか。どちらにしても勝蔵にとってまさに裏切られた思いだけが残る最期だったろう。
あとがき
今回登場した侠客たちは、それぞれが思う道を進んでいただけであろう。しかしその中で、明治以降の人生が大きく異なったのは、権力に利用されたか、されなかったかではないかと、私は考える。辰五郎や次郎長は、幕府に対しておもねることなく、ある意味対等な立場を取っている。箱館の柳川熊吉もあくまで義侠心からの行動であり、旧幕府とも新政府とも深いつながりは持っていない。
それに対し、会津小鉄はあまりにも会津藩との関係が深くなり過ぎていた。討幕浪士の探索や情報収集をする中で、新政府にとって不都合な真実を知っているかもしれない。新政府にとっては邪魔者でしかなかった。勝蔵に至っては、まさに使い捨てである。
彼らのような侠客は、歴史の表面には出てこないながらも多く存在していたのではないだろうか。人の道を外れたアウトローでありながら、人としての義を貫いた彼らは、その立場ゆえ、今もって多くの幕末有名人たちの陰に隠れた存在でしかない。
【主な参考文献】
- 幕末剣心伝 歴史群像シリーズ(学研、1998年)
- 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
- 金戒光明寺HP 会津藩と黒谷と新選組
- 箱館碧血会HP 【コラム】柳川熊吉について
- 『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』(マイウェイ出版、2018年)
- 高橋敏『博徒の幕末維新』(ちくま学芸文庫、2018年)
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