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想像するだけで恐ろしい、人柱とはどんな柱?
- 2024/12/02
「人柱(ひとばしら)」…。建物を頑丈にするために木に変えて人間を柱にすること?いえいえそんなことをしたら、柱にされた人間ともども、建物は崩れてしまいます。「人柱」は、人そのものを柱にするのではなく、人の魂の力にて建物を守るために行なう呪術的な儀式です。
日本の歴史的な建造物には人柱の伝説が伝わるものが多く存在しているんですよ。
日本の歴史的な建造物には人柱の伝説が伝わるものが多く存在しているんですよ。
人柱って知ってる?
「人柱」とは、城や橋などを建築する際、様々なトラブルを抑えるため、生きた人を土に埋めたり水に沈めたりするような行為をいいます。普通に考えると、なんとも恐ろしくて残酷な話ですよね?『日本書紀』にも4世紀に行われた茨田の堤(まむたのつつみ)工事の際に、人柱を立てたと記されています。人柱を立てるというのは呪術的な考え方で、万物に魂が宿るとする霊的存在への信仰を持つ地域に見られる考え方なんですね。人に宿る魂を建造物に宿らせれば、無事に工事が完遂すると思われていたのでしょう。
これに対して、神に身を捧げるのが「生贄(いけにえ)」ですね。「人身御供(ひとみごくう)」とも言われています。工事の成功を願って行われる人柱に対し、人身御供は洪水などといった荒ぶる自然を神の怒りと考えた人々が、その怒りを鎮めるために捧げたものといえますね。
人柱の柱の意味
人柱と書いて「ひとばしら」と読みます。この柱という字は、建物に使用される柱と同じですね。しかしこの人柱が持つ本当の意味は、神を示しています。神道では、神を数える単位を柱としているんですよ。人柱は死者の霊魂が神となり、建造物に宿ると信じられてきました。死者の霊魂が宿った工事や建物は、自然災害などが起こったり外敵から攻撃を受けたとしても、充分に対応できると考えられたのです。普通に考えると、人柱にされた人から呪われそうな感じがしますが…。
人間が亡くなれば、その魂が神に近しくなるということが、大きな意味となりますね。そのため、人柱に立つことは名誉なことだとされ、巫女・神職・僧侶などが志願して、人柱に立つということも少なくなかったとか。
人柱と生贄
実は人柱の事例は世界中に存在します。日本の博物学者・生物学者・民俗学者、そして生物学者として粘菌の研究で有名な南方熊楠(みなかたくまぐす)の著書となる『南方閑話』では、多くの人柱の事例が紹介されています。著書の中では、神への供物として人を生贄としたという言い伝えが多く、本書の中では人柱と人身御供を同じ意味として捉えているようですね。南方熊楠に対し、神学者として知られる高木敏雄(たかぎとしお)は、人柱と人身御供とは根本的に異なると主張。生贄と人柱は同じものではないとしています。
後に人柱という言葉は、暴力的で犯罪的な意味合いが強くなってきます。現代に近づくほど、工事中の犠牲者を埋めたり炭鉱夫などを生き埋めにするなどの行為を人柱と呼ぶようになってきました。
人柱の伝説
人柱の伝説や伝承を持ったまま残っている建造物は、日本各地に実在しています。実際に人骨が発見されたところもありますし、伝説があるだけのところもあります。しかしこれほどたくさんの言い伝えが各地に残るのは、霊的存在を信じる言わば信仰のような感情が誰にもあったのでしょうか。無理に人柱にされた人には、神に通じるといった名誉などは一切なく、真逆に恨み呪いながら死んでいったのでしょう。人柱という神聖な儀式ではありますが、やはり人々の中にはこのような行為に、怖れを抱いていた人も多かったのですね。近世以降は信仰心も変化して、人柱の意味が信仰を基本とした呪術的なものから、打算的で犯罪色の濃いものへと変化していきます。
松江城
島根県にそびえる松江城は、出雲地方の政治経済の中心となっていました。この松江城建築時のこと、天守台の石垣工事がうまく進まないため、人柱を立てることになったのです。そしてその人選のため、盆踊りが催されたといいます。そこで一番美しく踊っていた少女が連れ去られ、人柱とされて生き埋めにされたという伝承が残っています。その後無事に完成した松江城の天守でしたが、城主堀尾氏が父子ともに早逝することに。そして跡継ぎがいなかったため改易となりました。その後明治維新まで松江藩主を務めた松平氏が入城するのですが、天守で少女のすすり泣きする声が聞こえてきたそうです。
また、人柱になったのは少女ではなく虚無僧だったという説もあります。この虚無僧は、息子を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱に志願したという説と、旅の虚無僧を拉致して人柱にしたという説があります。こちらでも、夜になると尺八の音が聞こえてきたそうです。
彦根城
大津城から移築されたのが彦根城の天守です。この移築の際にはトラブルが続き、あまりに難航したため、作業員たちから人柱の提案がありました。そこに普請奉行の娘が人柱になることを志願したのです。しかし城主の井伊直継は、人柱については懐疑的でこころよくは思っていなかったようです。そこで、直継は娘を人柱にしたふりをして、娘を逃がしたのです。それでも人柱を立てたという安心感からか、無事に天守の移築が完成しました。元々は魂を信じる精神的な世界のこと。人柱を立てたという気持ちが、安心感をあたえ無事に工事を進めたのでしょう。
常紋トンネル
北海道の常紋トンネルは、明治45年(1912)に着工して大正3年(1914)に完成したトンネルです。この工事の際、過酷な労働を強いられていた人たちが、人柱として埋められているという噂が流れていました。常紋トンネルでは、列車の急停車などの事故が相次いで起こり、さらには心霊現象が見られるということで、昭和35年(1960)に鉄道会社がトンネルの近くに地蔵尊を建立したそうです。その後、昭和45年(1970)に発生した十勝沖地震で、破損したトンネルの改修工事に当たった際、なんと立ったまま埋められた人骨を発見。そしてトンネルの出入り口付近からも、大量の人骨が見つかったのです。人骨が発見されたことから、人柱伝説が証明された形になりました。当時、劣悪な労働条件下で亡くなった人に加え、見せしめとして撲殺された人が100人以上もいたのだとか。これはまさに、犯罪を隠蔽するための人柱だったのですね。
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