「小山評定」関ヶ原の趨勢決めた作戦会議、あったかなかったか? そのとき、家康はどうした?

小山市役所にある小山評定跡(栃木県小山市)
小山市役所にある小山評定跡(栃木県小山市)
 徳川家康は慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成を破り、天下を取りました。

 主だった戦国大名が東軍と西軍に分かれて美濃・関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で大規模な野戦を展開。戦国時代の幕を閉じる大決戦となり、豊臣政権内部の争いだったはずなのに家康が豊臣氏に代わる最高権力者となり、江戸幕府開設に進みます。

 この家康の勝利を決定づけた重要な会議が7月25日、下野・小山(栃木県小山市)で開かれた「小山評定(おやまひょうじょう)」です。しかし、この小山評定をめぐっては「ドラマチックだが、作り話」という説が根強く、実際に行われたか否かは今も熱く議論されています。
 
 今後も家康をめぐる話題の中で議論が沸騰すると思います。どうぞ参考にしてください。

実在説と虚構説のバトル

 小山評定の実在性を検証していきますが、先に結論を示します。

  • 小山評定があったかなかったか、実在説と虚構説の論争は面白い。
  • 小山評定はあったということでいいのではないか。

 この論争では、学者、専門家が具体的な証拠を基に論拠を示しており、それぞれ傾聴に値します。それぞれの言い分に納得できる部分があり、決定的証拠がないので論争になっているのです。そして、その論争自体の熱いバトルはなかなか興味深いものがあります。しかし、推定できる材料はいくらかあります。そして、客観的状況から、会議で方針が決まったと考える方が自然です。

独断で方針転換できたか?

 豊臣氏に従う大勢の大名が上杉景勝を攻める会津征伐への進軍中、上方での石田三成挙兵を知り、徳川家康をリーダーとする上杉攻めの諸将が集まった軍議が小山評定です。ここで上杉攻めの中止と、家康に味方して石田三成と戦うことを決めました。

 家康とは直接主従関係にはない諸将も家康の指示に従うことになり、しかも上杉攻め参加武将のほとんどが家康に味方し、関ヶ原の戦いの大勝に直結するのです。家康がリーダーシップを発揮し、徳川政権・江戸幕府開設にもつながる重要な軍議です。

 小山評定がなかったとするならば、徳川家康が独断で上杉攻めを中止し、全軍の行動を反転させるという方針転換を決めたことになります。しかし、家康が諸将に諮らずに決めるだろうかという基本的な疑問が出てきます。

 この時点で、最大実力者の家康の意見に逆らう武将もいないでしょうし、石田三成挙兵に対応するということには誰も異論はなかったはずです。しかし、家康の指揮に従う武将は家康の家臣ではなく、あくまでも豊臣軍として行動しました。家康は役目として軍勢を指揮していたにすぎません。

 家康としては諸将の賛同を得た、諸将の意見に従って方針を転換した、という形式が欲しかったはずです。諸将への配慮であると同時に、後になって「いや、自分は方針転換には反対だった」と離反する者が出ることも想定して、その口実をつぶしておく意味合いもあります。念には念を、打てる手は打っておく、というのが家康の手法です。

小山に仮御殿、陣小屋を造営

 小山評定を裏付ける具体的な史料をみていきたいと思います。

 小山評定の現場は祇園城。10年前、天正18年(1590)の北条氏滅亡とともに改易(所領没収)となった小山氏の居城で、このときは廃城になっていました。しかし、徳川家康は準備万端、この廃城に御殿を建てていました。

 直接、造営作業に関わったのは下野南部の佐野に所領を持つ佐野信吉。地元の史料『下野佐野東松庵日記』『佐野実録』などによると、慶長5年(1600)5月3日、小山前後3里に123カ所の陣小屋造営や祇園城の御殿造営を命じられています。祇園城内の普請(工事)では、佐野氏配下の大工の棟梁8人のうち3人に官位が与えられたともあります。突貫工事の功労者への褒美です。

 5月では会津征伐の決定や諸将への陣触れの1カ月前ですが、既に上杉景勝との対立は決定的になっていて、家康はいち早く会津攻めの準備を進めていたようです。御殿は小山評定の舞台となった急造の仮御殿。諸将が周辺に滞在できるよう陣小屋も整備させていました。

 家康にとって、本来の敵は上杉景勝ではなく、石田三成。この時点で、三成挙兵まで見越していたかどうかは分かりませんが、会津を間近にした宇都宮ではなく、東山道を西に向かうには好都合な小山を拠点にしようと整えていたのは、さすが家康といった感じです。

駆けつけた諸将に茶も出さず

 「小山評定」という言葉自体が史料に登場するのは江戸時代後期以降で、その意味では後世に創作された部分は確かにあります。ただ、当時の状況が分かる史料もあります。徳川家康の侍医・板坂卜斎(宗高)の『板坂卜斎覚書』です。元和~寛永期に書かれたとみられ、直接現場を見た人物による回顧録のようなもので、後世の創作とは違う史料です。

 そこには、「大将衆」が残らず小山に来て「小山古城(祇園城)の内」の「かりの御殿」に集まったと記されています。供の者は10人程度、槍一本、馬印一つで駆けつけた諸将に食事も薄茶も出さなかったなど、バタバタとした状況が活写されています。このような史料があることも留意すべきです。

ドラマチックな逸話

 小山評定で徳川家康は「大坂に残された人質もいるから」と、進退は各自に任せるという意向を伝えると、まず福島正則が「大坂の人質、殺さば殺せ。内府(家康)にお味方し、石田三成を討つ」と断言。秀吉に最も近かった福島正則の発言だけに、流れが一気に決まり、諸将が一斉に家康に味方することを誓います。

 山内一豊に至っては、東海道上にある遠江・掛川城(静岡県掛川市)を提供すると言い出し、諸将も追従せざるを得なくなります。家康としては、してやったりの展開。また、福島正則の発言には黒田長政の根回しがあったとされます。

 これらの逸話がさすがにドラマチックすぎて、虚構説にもつながります。逸話の中には確かに後世創作されたものも結構あるのかもしれません。

おわりに

 小山評定の舞台、祇園城は現在の小山市役所や近くの須賀神社、城山公園となっていて、市役所や須賀神社には小山評定の碑があります。

 また、徳川家康は小山評定の後も10日ほど小山に滞在し、8月4日朝、10キロほど南の乙女河岸から船で江戸に向かいます。この乙女河岸跡も近年、小山乙女河岸歴史公園として整備され、小山評定と徳川家康の歴史を伝えています。

 地元、栃木県小山市には家康の足跡がのこされているのです。

乙女河岸跡(栃木県小山市の小山乙女河岸歴史公園)
乙女河岸跡(栃木県小山市の小山乙女河岸歴史公園)
須賀神社の小山評定碑(栃木県小山市)
須賀神社の小山評定碑(栃木県小山市)


【主な参考文献】
  • 笠谷和比古『戦争の日本史17関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)
  • 江田郁夫、山口耕一編『戦乱でみるとちぎの歴史』(下野新聞社)
  • 産経新聞社宇都宮支局編『小山評定の群像 関ヶ原を戦った武将たち』(随想舎)
  • 小山市編『小山評定武将列伝』(栃木県小山市)
  • 『小山評定と関ヶ原合戦』(小山市立博物館企画展図録)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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