戦国時代とはそもそもいつ頃からを指すのだろうか。これには諸説あるが、一般には応仁元年(1467年)に日本史上最大の内乱として勃発した「応仁の乱」、もしくは明応2年(1493年)の「明応の政変」が有力どころである。ではまず、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱以前の歴史を少し追ってみよう。
初代将軍・足利尊氏は後醍醐天皇を退位させ、光明天皇を擁立して室町幕府を創設した。しかし、醍醐天皇は大和国(現在の奈良県)の吉野に南朝を開いたことで2人の朝廷が並立し、長期にわたる内乱が続くことになった。
義満の時代には南北朝が合体し、政権は比較的安定した状態であった。しかし室町幕府の力は弱く、幕政は合議制といった有力守護大名との連合政権であり、各地では山名氏や大内氏などの有力守護の反乱が相次いでいた。この頃、有力守護の斯波・畠山・細川の三家が管領として確立されるようになる。(三管領)
義満の死後、室町幕府の支配力は衰退して有力守護がさらに強大化。一方、各地では土一揆・国一揆が頻発していった。土一揆での幕府に対する要求は、債務の破棄を命じる「徳政令」を求めたものが大半だったという。
特に6代将軍・義教のときには幕府の力は大きく失墜。くじ引きで将軍に就任したことから「くじ引き将軍」と呼ばれた義教は、幕府の権威を復活させるため、「万人恐怖」と評されるほどの専制政治を行なう。こうした政治が反感を買い、義教の末路は有力守護の一人・赤松氏に殺害されるというものであった(1441年:嘉吉の乱)。
その後も各地で幕府内部での覇権争いは続き、のちに応仁の乱(応仁・文明の乱ともいう。)へとつながり、戦国時代突入となる。その時代背景には以下の3つの要因があった。
【その1】室町幕府の統治力の低さ
室町幕府では内部対立が長く続いており、幕政はとても不安定な状況であった。幕府直属軍勢はわずか3000名ほどしかおらず、民衆への支配力もほとんどない状態であった。
【その2】民衆の一致団結・自立意識の高さ
各地の民衆は惣村を形成して、幕府や守護等の領主の支配に対して要求や不満があれば、土一揆を起こした。(※土一揆は主に年貢の減免や債務破棄の要求が中心)
【その3】天災続きと食糧難
その当時、天災続きと食糧難であり、民衆は危機意識が高く、幕府はあてにならなかった。
乱世の幕開けとなった応仁の乱は約10年にもわたって続き、その間に戦場となった京都は大きく荒廃し、幕府の機能は極限まで低下していった。こうした背景の中、力のある地方権力者たちは幕府の政治体制や制度を無視し、在地の武士や農民を統率する地域のリーダーとして独自の領国統治を行なうようになっていった。このリーダーというのが "戦国大名" なのである。
戦国大名という言葉は、昭和時代に創作された学術用語である。江戸時代には一万石以上が大名という線引きが存在したが、戦国時代においては、支配する領地や家臣団の規模により、どこからが戦国大名と呼べるのかの明確な基準はなかったらしい。
彼らは武力によって領土を拡大し、食糧確保に奔走。民衆の要求にも従って、民衆のために戦った。また守護大名とは違い、家臣との主従関係を強力に結ぶも、一方的に支配するという専制君主ではなかった。そして、室町幕府に従うことなく、それぞれが「分国法」と呼ばれる独自の法律を作り、領国の経営にあたった。
戦乱の世では兵数や物資が多くて統率がとれたほうが当然強く、秩序が必要であった。このため、分国法を作ることは必然であったのである。「喧嘩両成敗法」は多くの分国法に取り入れられ、領地内の紛争の決着権限を戦国大名に集中させることで国内紛争を抑えた。
国衆(くにしゅう)とは、土地とのつながりが強い領主を意味し、国人領主(こくじんりょうしゅ)ともいった。このため、先祖から受け継がれた土地を守ろうとする意識が強く、また、国や地域毎に結束して守護による支配からの自立をはかる傾向が強くあった。
戦国時代において国衆は城を支配する独立領主として存在し、その大半は戦国大名の家臣団に組み込まれている。しかし、その一方で周辺の国衆をも屈服させて戦国大名にまで成長する者も現れている。安芸国・毛利氏や土佐国・長宗我部氏、肥前国・龍造寺氏などはその代表例である。