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榊原家最後の藩主・榊原政敬は不運なだけの殿様だったのか?
- 2024/01/30
幕末に高田藩(新潟県)の藩主だった榊原政敬(さかきばら まさたか)は、長州征伐での敗北や戊辰戦争での「不審藩」のレッテルなど、不運に付きまとわれた印象を持たれています。一方で、政敬は藩祖以来の榊原家の伝統を守り抜いた英断の主でもあったのです。
政敬とは、どんな殿様だったのでしょうか。
政敬とは、どんな殿様だったのでしょうか。
藩祖・榊原康政と藩是「尚武勧学」
榊原家の藩祖は、徳川家康四天王の一人だった榊原康政です。康政は、家康が今川家の人質だった頃から小姓として仕えていた古参の家臣で、身分は低かったものの、持ち前の英知と武勇で立身出世を果たしていきました。天正18年(1590)に家康が関東に国替えとなった際、康政は館林(群馬県)10万石を賜りました。家康が江戸幕府を開設後も、館林藩の初代藩主として幕府の初期には老中も務めたのです。
康政を藩祖とする榊原家は、「尚武勧学」を藩是(藩の政治方針)としていました。尚武とは武芸を尊ぶこと、勧学は学問を勧めることで、文武両道に秀でた康政の精神が4文字に現れていると言ってもいいでしょう。
取り潰しの危機を乗り越え、政敬が藩主継承
江戸時代の榊原家は、館林藩から白河藩、姫路藩、村上藩への転封を繰り返し、寛保元年(1741)に榊原政永が高田藩の初代藩主となり、以後明治維新まで約130年間、統治しました。その高田藩6代目として、文久元年(1861)に藩主に就いたのが榊原政敬です。ここまでの榊原家は、跡継ぎ不在などで幾度となくお家断絶の危機がありました。しかし、「康政ゆかりの榊原家を取り潰してはならない」として、危機を乗り越えてきました。徳川家としては、「お家一大事の時に頼りになるのが榊原家」という意識があったのでしょう。
文久3年(1863)に将軍・家茂が、家光以来229年ぶりに上洛した際にも、政敬は随行を命じられ、将軍と共に京都に赴いています。
高田藩榊原家を襲った相次ぐ不運
将軍の上洛随行では領内で御用金を徴税するなど、藩の財政運営に苦労を重ねていた政敬ですが、さらに財政を圧迫するような命令が幕府から出されます。それが慶応2年(1866)の第二次長州征伐での出兵でした。政敬率いる高田藩は、井伊家の彦根藩とともに、芸州口の先鋒を命じられます。家康の四天王として武功を重ねた榊原、井伊という名門に期待したのでしょう。しかし、西洋式軍制をいち早く取り入れていた長州藩の前に敗北を喫してしまうのです。
やがて時代は、新政府軍と旧幕府軍の戦いへと移っていきます。旧幕府の各藩は、立ち位置を明確にしなければなりません。そこで政敬は「朝廷に忠勤を尽くすが、徳川慶喜の朝敵の汚名も拭いたい」という高田藩の方針を決めました。
ところが、この方針が新政府軍からは「優柔不断で旗幟(きし)不鮮明」だとして、「不審藩」というレッテルを張られます。結局、長岡戦争や会津戦争に従軍させられ、一部の藩士は脱藩して旧幕府軍に加わるという「分裂」を引き起こしてしまったのです。
「尚武勧学」を具現化した政敬
幕末の高田藩の財政は窮乏を極めていました。政敬は高田城の土塁を崩して堀に入れ、レンコンの栽培をさせていたそうです。そんななかでも、藩是「尚武勧学」を重んじてきたことで、学問を志す多くの人材が育っていきました。明治40年(1907)、榊原家が所有していた高田城跡地を高田町が買い上げ、榊原家に巨額の売却金が入ってきました。政敬は旧家臣と相談し、売却金をもとに育英事業と福祉事業を担う財団を設立し、人材育成に力を入れることにしました。
財団は「旧高田藩和親会」として活動を続けており、会の本部がある榊神社には、藩祖・康政や歴代の名君と共に、政敬が合祀されています。
おわりに
榊原政敬は、明治、大正の時代を生き抜き、昭和2年(1927)に84年の生涯を閉じました。幕末の動乱期に藩主となり、不運につきまとわれながらも維新の荒波を乗り越えてきた政敬。藩祖以来の伝統である「尚武勧学」を見事に具現化したことで、今もその英断ぶりが称えられているのです。※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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