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  • 徳川家康
 2019/05/20

「榊原康政」あの秀吉を檄文で激怒させた勇将の生涯とは

榊原康政の肖像画

徳川が天下を治めたことからもわかるように、徳川家康の家臣には優秀な人材が揃っていました。有名どころとして、江戸幕府の基礎固めに功績を残した徳川三傑の本多忠勝や井伊直政らが思い浮かびます。

徳川三傑の残り一人は榊原康政ですが、彼は同じ三傑ながら、知名度において忠勝と直政に水をあけられている印象があります。とはいえ、忠次や康政も功臣中の功臣であり、その評価はとても高いものがあります。

そこで本記事では榊原康政の生涯を紹介し、彼の活躍ぶりにスポットライトを当てていきます。
(文=とーじん)

若くから家康に見い出されていた

天文17年(1548年)、康政は伊勢から三河に移り住み、松平(徳川)家に仕える榊原の家に生まれました。

康政の後年における出世からは想像もできませんが、彼の生まれた家は榊原本家ではなく分家にあたる存在でした。そのため、榊原家の中でも康政の家は低い地位にあったと考えられ、康政の父や祖父の活躍についても具体的な記載が一切ありません。

ところが、決して家格が高くなかったにも関わらず、康政は早くから頭角を現しました。

その理由は単純で、康政本人の能力が非常に高かったためと伝わっています。実際、生まれた立場としては酒井家に仕える小姓でしかなかったのですが、彼が13歳になった永禄3年(1560年)にはすでに家康に見いだされて彼の側近となっているようです。

これは明らかに早い出世であり、康政本人の資質が相当な評価を受けていたことを示しています。また、この年齢にして家康より「康」の一字を与えられており、小姓の中ではよほど図抜けた存在だったのでしょう。

そして、若き康政は早くも、家康からの期待に応える活躍を見せるようになります。

家康が今川家から独立した後の永禄6年(1563年)、かつて康政が小姓として仕えていた酒井忠尚という人物が家康を裏切った際、攻撃する部隊の一員に選出されています。そして翌年には若干17歳にして与力を従えることを許される存在に…。

さらに永禄9年(1566年)頃に行なわれたとされる三河の軍制改革では、「旗本先手役」という極めて重要なポストに抜擢されています。

三備の軍制
三備の軍制

また、康政は榊原家の家督を継承していますが、彼には兄に榊原清政という人物を有していました。

通常であれば長男が家督を継承するものですが、この際は康政が家督を継承することになりました。その理由はハッキリと分かっておらず、現在でも謎に包まれています。

ただ、後年の事績を見る限り、結果的に康政が家督を継承したことで榊原家の発展がなされたことは間違いないでしょう。

勇猛果敢な将として戦場で大きな存在感を示す

家康の側近として信頼を勝ち取った康政は、徳川家が経験した戦において常にその姿をのぞかせました。

今川領の遠江国(現在の静岡県)攻略に際しては本多忠勝とともに常に先手を務め、この一連の戦では実に40余りの敵将を討ち取ったという記載が残されています。

その後、元亀元年(1570年)姉川の戦いにも従軍。そして、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川軍は戦そのものには敗れていますが、康政は強烈な猛将ぶりを発揮します。

江戸時代の家伝『藩翰譜』によると、康政は劣勢の戦いにもかかわらず、武田本陣の山家三方衆を撃破。家康の退路を確保した後に「無」の旗指物を打ち立てて兵を集め、悠然と去っていったといいます。

以後も長篠の戦いや高天神城の戦いなど、武田軍との戦いで戦場を駆け巡ります。勇猛果敢な将として広く知られるようになった康政は、家臣団や周辺諸国の将にも一目置かれる存在でした。

例えば、天正2年(1574年)には上杉謙信が康政宛てに書状をしたため、信長の不穏な動きを受けて康政経由で家康に信長への「諫言」を依頼しています。また、公卿や寺社からも家康への取次を依頼されている形跡も確認でき、家康にとって側近中の側近であることは当時からよく知られていたようです。

秀吉を激怒させた康政の檄文とは?

天正10年(1582年)には本能寺の変勃発を受けて家康の伊賀越えにも同行しています。そして、康政が最もその豪気を見せつけたのが天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでしょう。

小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延 画)
小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延 画)

小牧・長久手の戦いは、家康・織田信雄がタッグを組んで、秀吉軍と争った広域の合戦で知られます。康政は羽柴秀次の軍勢をほぼ壊滅状態にする功をあげています。

そして有名なのが康政の檄文です。彼は秀吉軍の戦意をくじくべく、戦いの最中に豊臣方の武将たちに以下の書状を送り、秀吉を痛烈に批判したといいます。

「秀吉は信長公の恩を忘れて息子の信雄に敵対する義なき者」

当然秀吉はこの檄文に激怒。康政を討ち取ったものには望みの恩賞を与えると言い放ったとも伝わります。

また、この戦に際して及び腰な家臣も少なくありませんでしたが、康政は「太閤ほどの大敵に立ち向かい、城を枕にして討ち死にするのは武士の名誉だ」として徹底抗戦を主張。

結果的に戦は秀吉と信雄の和睦という形で幕を閉じますが、 後年康政は家康に付き従って秀吉と面会した際に「先の戦では何としても首を刎ねてやろうと思ったが、今ではかえって主君への忠誠心に感服するばかりだ」とその忠節を称賛されています。

豊臣政権下、徳川の関東移封で家臣屈指の石高を手に。

やがて天下の趨勢は秀吉に傾き、家康も秀吉に従属するようになります。

天正14年(1586年)に秀吉が家康を懐柔するため、妹の朝日姫を家康の正室として申し入れ、その結婚が決まったときには、康政が結納の使者として上洛しています。

実はこれは秀吉の希望でもあったらしく、『藩翰譜』によると、康政に会った秀吉は檄文の件を持ち出して、 「あの時は激昂したが、和睦となった今ではかえって徳川の忠誠の志であったのだと感じている。これを言いたくて来てもらった。」と言ったと伝わります。

天正18年(1590年)の徳川の関東入国に際しては、上野国舘林10万石の領地を手に入れ、家臣でも屈指の高禄取りになりました。豊臣政権下ですでに重臣となっていた康政は家康より嫡男秀忠の補佐を命じられています。また、領国舘林においても領内の整備に力を注ぎました。

秀吉の死後、慶長5年(1600年)に関ケ原の戦いが勃発すると、康政はこれまで補佐してきた秀忠軍の一員として戦場を目指しました。ところが、秀忠軍は上田城の真田家攻略に手間取り、関ケ原本陣へ遅参するという大失態を演じてしまいます。

この一件に家康はたいそう激怒したとも伝わりますが、あくまで秀忠の失態であったため康政自身は事なきを得たようです。

晩年は…

こうして徳川の時代が到来することに大きく貢献した康政。しかし、晩年の康政は一般的に不遇であったと見なされることがあります。その理由は、特に大きな失態がなかったにも関わらず領地が加増されず、しだいに政治の中枢からも遠ざけられていったと考えられるからです。

この原因には諸説があります。

まず、同じく猛将として知られた本多忠勝も晩年は冷遇されたことから、太平の世を迎えるにあたって武勇専攻の武将を政治から遠ざけたという説が有名です。

他にも、年齢的に高齢となっているため後身に政治を任せるためあえて身を引いたという説や、関ケ原での戦功がないことを理由に加増を断ったという説があります。

ただ、いずれにしても康政が政治から距離を置いていたのは間違いないでしょう。その証拠に、華々しい半生とは異なり江戸時代の康政についてはあまり語ることがありません。

史料に記載がないので晩年の彼がどういった心境で日々を過ごしていたのかはわかりませんが、結局関ケ原から6年後の慶長11年(1606年)に領地館林にて59歳の生涯を終えています。

このように、勇猛な武将として知られながら晩年には政治と距離を置いた康政。しかし、彼の子孫は領地を転々としながらも江戸を生き抜き、現代までその名を残しています。

歴代当主は通常であれば改易や断絶を余儀なくされる失態を演じたことも少なくなかったようですが、そのたびに幕府からお目こぼしや手助けを受けている様子が記録されています。これは康政の功績が考慮されての処置であったと見なされることが多く、彼の武勇は後の子孫たちをも救ったといえるのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版、2015年)
  • 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(KADOKAWA、2016年)
  • 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)




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