「生涯不犯」のはずの上杉謙信が結婚していた?

戦場での謙信を描いた浮世絵(月岡芳年 作。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
戦場での謙信を描いた浮世絵(月岡芳年 作。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

生涯不犯の上杉謙信

 上杉謙信は「一生不犯」だったと評されている。不犯とは、他人と性的に交わらないという意味である。

 つまり謙信は生涯童貞だったというのである。

 しかし近年の歴史研究では、謙信は実子を残していないが、妻帯の形跡があるのではないかと指摘されるようになってきた。

 その根拠は、史料価値が高いとされる高野山の『越後過去名簿』と呼ばれる過去帳に、次の記述が見えることである。

   越後府中御新造ノ御内宮崎御松子
昌栄善女 逆
   永禄二年四月一日トリ次東易談義所ニテ

 永禄2年(1559)、謙信が30歳の頃、「昌栄善女」なる女性が「逆修(生前供養)」されていることを伝えるものである。

 ただ、重要なのはこの女性の補足説明文に、彼女が「越後府中」の「御新造」だと書いてあるところである。

 この時期、越後の「府中(首都)」は、国主たる謙信の支配下にあった。つまり府中の支配者は謙信である。そして、ここにある「御新造(おしんぞう)」は「新しい奥さま」という意味の言葉である。高貴な女性は嫁入りにあたり、新しい建物を造られるという伝統から「御新造」さまと呼ばれたのである。

 ということは、越後府中の新しい奥さまということで、この女性は謙信の妻だったのではないかという問題が提起されたのである。

『越後過去名簿』に記される謙信の身内

 この過去帳には、ほかにも謙信の身内の供養の記録がいくつもあって、ほかの史料にないような人物の存在も確認できた。俗名を「おどうごさま」「おはちさま」と呼ばれた謙信の姉妹たちである。彼女たちは残念ながら幼くして早生してしまっており、人々の記憶から消えさってしまったようだ。

 また、謙信の父と母の没年も江戸時代に書かれた文献を根拠として、長く信じられていた定説があったのだが、過去帳の記録からより精度の高い没年が導き出された。

 長尾為景は、天文5年(1536)説と天文11年(1542)説が根強く、大河ドラマ『天と地と』は前者の説を採っており、『風林火山』も明確な年次を表現していなかったものの、登場人物たちの認識としてやはり前者の説を前提とする物語描写がなされていた。しかし、『越後過去名簿』はこう記している、

   府中長尾トノ御菩提タメ立之
道七沙弥
   天文十辛丑十二月廿四日

 為景(戒名、道七)の没年月日はどうやら天文10年(1541)12月24日であるらしい。ほかの一次史料とも矛盾がないことから、その没年はここにほぼ確定したと思われる。

 続けて為景の妻であり謙信の実母(虎御前と伝わる女性。戒名、天甫喜清)とされる女性も次の記録がある。

   府中御新造サマ
天甫喜清
   天文十二 五月七日

 謙信実母は永禄11年(1568)5 月 7 日に亡くなったと伝わっていたが、こちらも通説と異なり、為景が亡くなった2年後の天文12年(1543)に亡くなったことを認められる。謙信14歳のことであった。

 高野山の過去帳はこのように戦国武将の没年など、通説を次々と塗り替えており、とても注目されている。しかし世に知られるようになってからまだ十分な検討が進んでおらず、解釈に困るものや誤読されがちな記述も見える。

 そして謙信の兄である長尾晴景も天文22年(1553)2月10日死亡説が強かったが、同過去帳は次のように記す。

   府中長尾為弥六良トノ
華嶽光栄
   天文廿 二月十日 蔵王院トリ

ここに晴景の没年は2年早まり、天文20年(1551)に亡くなったことが確かめられる。

府中御新造についての傍証材料

 ところではじめに紹介した「昌栄善女」(謙信の妻である可能性を指摘される女性)が生前供養された年より6年前、謙信が上杉一族を供養した記述がある。

   春日山平三立之
上椙頼房御菩薩
   天文廿二 十月十二日

 ここにある「春日山平三」とは「春日山」の居城にいる「平三」ということで、謙信の仮名(けみょう。通称のこと)は「平三」であったから、これは謙信のことと見て間違いない。

 実はここには謙信妻帯説に対するひとつの別解釈を読み取る鍵が隠れている。謙信は天文22年(1553)にはすでに春日山城に住んでいたのだ。越後春日山と府中は近いようで、意外に距離があり、5.5キロメートルほど離れていた。

 もし先の「昌栄善女」が謙信の妻だったとしよう。だが交通手段の発達した現代ですら、5.5 キロメートルも離れて別居生活するのは奇異である。

 それに先に示した記述を思い返してもらいたい。

 長尾為景は天文10年に亡くなった。妻である「天甫喜清」は天文12年に亡くなった。彼女の記述にある補足説明を見てもらいたい。彼女もまた「府中御新造」とある。為景が亡くなってからもその未亡人は「御新造」さまと呼ばれ続けていたのである。

 そして天文20年に長尾晴景が亡くなったが、晴景にはまだ幼児の嫡男・猿千代が残されていた。系図や年譜の記録によれば謙信はこの猿千代を養育して、自身の後継者とする予定でいたが、猿千代は父晴景に似て病弱だったものか、元服する前に若くして亡くなってしまったという。

 ここでひとつ考えられることがあろう。

 為景が亡くなったあと、未亡人は府中に移り住んでいた。そして、おそらく晴景の未亡人も府中で穏やかに過ごしていたであろう。すると昌栄善女というのは、謙信ではなく、長尾晴景の未亡人だったように思われる。

 謙信の「一生不犯」伝説について、米沢藩上杉家の記録は、こう伝えている。

 病弱で政治を続けられない兄・晴景から家督を譲り受けた時、謙信はその嫡男・猿千代に家督を返すまで女性を遠ざけて政権を預かる誓いを立てた。だが、晴景が早くして亡くなり、猿千代もまた早世してしまった。謙信が不犯を通したのはこれが原因であると記されているのだ。

 謙信の不犯には、宗教戒律説や男色傾倒説がある。だが宗教戒律説は明治になってから推測されたものであり、史料的根拠に乏しい。男色傾倒説も、戦国時代の大名たるもの、どれだけ少年が好きであっても御家のためには我慢して女性と交わり、実子を儲けなければならず、そんなこともできないようなら老臣たちも謙信を擁立しようとはしなかったはずである。

 おそらく米沢藩の記録にある通り、謙信は兄への「節義」を通すため、妻帯を避け続け、猿千代死後すぐに養子を取ることにしたのだろう。その養子こそが、姉の実子で、のちの上杉景勝である。

 景勝は謙信の血を受け継いではいなかったが、謙信が「節義」を通した証として、その精神をよく受け継ぎ、また自身の信念を徹底して通し続けた。

 こうしたことから、私は謙信の生涯不犯は、事実であっただろうと考える。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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