【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス(1) ~ 謙信・景虎・景勝はなぜそんな名前に?
- 2022/09/26
※内容紹介(戦国ヒストリー編集部より)
戦国武将・上杉謙信と言えば、川中島であの武田信玄と5度も戦ったことで有名ですよね。合戦での桁外れの強さから「越後の龍」「軍神」などの異名も持っています。
そんな謙信ですが、実は何度も名前を変えていることをご存じでしょうか? 本稿にて『謙信越山』『上杉謙信の夢と野望』の著者、歴史家・乃至政彦氏が謙信の改名について解説します。
上杉謙信・景虎・景勝、3人の改名
戦国時代、戦上手で知られる越後国の「長尾景虎」は、多くの改名を経て、最終的に「上杉謙信」の名乗りを得た。そして養子の北条三郎を「上杉景虎」に、長尾顕景を「上杉景勝」へと改名させた。この改名の背景には、謙信が長年争ってきた甲斐武田家および相模北条家との確執がある。なぜ、謙信は「謙信」を名乗ることにしたのか、養子たちの新しい名前をどのように考えたのか。その謎に迫ってみよう。
上杉謙信の名前
上杉謙信には、たくさんの名前がある。幼名は、藩史に「虎千代」と伝えられている。寅年生まれの謙信は、生まれてすぐこの幼名を授かったのだろう。父は越後守護代・長尾為景。※参考:上杉謙信名乗りの変遷
年 | 名乗り | 備考 |
---|---|---|
1530〜36 | 長尾虎千代 | 「猿松丸」の説もある。 |
1536〜61 | 長尾景虎 | 仮名(けみょう)は「平三(へいざ/へいぞう)」、官名は「弾正少弼」。 |
1553〜56 | 長尾宗心 | 京都大徳寺で授かった法号。3年ほどで還俗して「景虎」に戻った。 |
1561 | 上杉政虎 | 上杉憲政から「政」の一文字を授かったとされる。 |
1561〜70 | 上杉輝虎 | 足利義輝から「輝」の一文字を授かった。 |
1570〜78 | 上杉謙信 | 不識庵謙信。林泉寺の益翁宗謙から「謙」の一文字を授かったとされる。 |
7歳で元服すると、「長尾景虎」と名乗った。謙信には「長尾晴景」という兄がいて、家督は晴景が継ぐことになっていた(ちなみに謙信には14歳元服説もあるが、史料的根拠はない)。謙信はゆくゆく兄の補佐役となることを期待されていた。
ところで越後国の長尾家当主は、代々「景」の一文字を名前の下側に置き、その弟たちは「景」を上に頂くことが通例となっていた。これは弟が兄を超えてはならないという意味合いもあった。ところが為景が亡くなると、晴景は越後国を統治する力量に欠けていて、謙信が家督を代行することになった。その後すぐに晴景が病没したので、謙信は兄の遺志を受け継ぎ、立派に国を守ろうと意気込みを強めた。
だが、前途は多難であった。謙信(当時は長尾景虎)は、甲斐国の武田信玄および相模国の北条氏康と敵対することになってしまったのだ。これは苦戦する東国各地の将士から助けを求められてのことであったが、とても越後一国で太刀打ちできそうにない。そこで関東将士たちは、謙信に、権威の薄い長尾家ではなく、関東管領山内上杉家の当主となることを薦めた。
謙信、32歳のことであった。
長尾景虎から上杉政虎へ
永禄4年(1561)、謙信は山内上杉家の家督と関東管領の名代職を継承して、「上杉政虎」に改名した。そして同年末、京都の将軍・足利義輝から「輝」の一文字を譲り受け、「上杉輝虎」へと改名した。謙信はここに、関東管領ならびに将軍が公認する屈指の有力大名となったのである。 しかし、これを認めまいとする勢力があった。謙信と敵対する武田信玄と北条氏康である。
信玄も氏康も謙信を「長尾景虎」と呼び続けた。なぜなら、もし謙信が長尾から上杉へ苗字を改めたことを認めれば、それはその関東管領の役職を認めることになり、謙信の東国の支配権を許したことになってしまうからだ。関東管領の管轄地には、氏康の本領地である相模国はもちろん、信玄の甲斐国まで含まれている。だから、このような事態を事実として受け入れるわけにはいかなかったのだ。
当然、武田・北条に友好的な領主たちもこれに倣い、謙信を「景虎」と呼び続けた。ところが転機が訪れる。
謙信(当時はまだ上杉輝虎)は、いつまでも続く東国の戦いに疲れていた。そこで早くこれを終わらせて、西に目を向けようと考えていた。目指すは上洛である。それと同時に対外方針を改めようとする大名がもう1人いた。武田信玄である。信玄もまた氏康との同盟を無視して、駿河国の今川氏真を攻めようと考えていたのだ。
北条と上杉の同盟
信玄が駿河国に侵攻すると、何も聞かされていなかった氏康は激怒した。氏真の妻は、氏康の愛娘でもあった。向こう傷の氏康が氏真夫妻の受難を看過するなどできることではない。氏康は武田家との同盟をすぐに捨て、上杉家と同盟する計画を立てた。もちろん氏康の狙いは武田家の挟撃にあった。謙信にすれば、渡りに船である。
ところが元々敵同士であった両国の同盟交渉は難航する。関東現地で北条家と争い続けていた将士たちは、氏康を「他国の凶徒」と毛嫌いしていた。北条家はもともと西国で伊勢家を名乗っていた一族であり、それが関東への侵攻を本格化する際に改名したものである。だから相模北条家を北条ではなく、「伊勢」と呼び続けていた。謙信もこれに同調して北条氏康を「伊勢氏康」と呼んでいた。
交渉は、まず両者が互いの認識を改めることからスタートしなければならなかった。これより謙信は氏康を「北条」と、氏康もまた謙信を「山内(=関東管領上杉)」と呼ぶことになる。さらに謙信は、氏康が奉じる足利義氏を「古河公方(関東管領の上司)」と認め、氏康もまた謙信を「関東管領」として認めることにした。
だが、これはまだ第一歩であり、まだ話は進まない。謙信は重臣・柿崎景家の息子「柿崎晴家」を北条家に送り、氏康は末息子の「北条三郎」を上杉家に送ることにした。ここで謙信も譲歩して三郎を養子として迎え入れることにした。こうしてようやく越後国と相模国の同盟が結ばれることになった。いわゆる「越相同盟」である。
越相同盟の締結と上杉景虎の誕生
謙信は、三郎が越後国に入るとすぐに「上杉景虎」の名乗りを与えた。自分が若いころの名乗りを与えたのは、それぐらい三郎を気に入ったからだと言われている。ただし、史料的裏付けはない。こうして越相同盟が固まると、続けて謙信は禅の師匠である林泉寺の益翁宗謙(やくおうそうけん)より一文字を授けられて、「不識庵謙信」の法号を得た。北条三郎→上杉景虎、上杉輝虎→不識庵謙信の改号は連動して行われたのである。
ところで、なぜ三郎に景虎の名乗りを与えたのかを想像すると、2つの理由があるのではないかと思われる。
ひとつは、いまだ自分を「景虎」と呼び続けている関東将士のわだかまりを解く意図があったのではないだろうか。もうひとり正真正銘の景虎が現れることで、自分への悪意のシンボルと化している“景虎呼び”を封印させるのである。これにより今後、将士は「越後の景虎が」という言葉を使いにくくなる。自分の上杉継承を万人に認めさせる絶好の妙策だったのだ。
それともうひとつは、三郎景虎よりも先に養子にしている男子への配慮である。景虎より1歳年下の「長尾顕景(のちの上杉景勝)」である。顕景の実母は謙信の姉であり、謙信は顕景を後継者として考えていたらしい。謙信は、一応上杉を名乗ってはいるが、上杉を名乗ってからも功績ある家臣に長尾の通字である「景」を与えていたように、上杉家の当主であると同時に、長尾の当主も兼務していたのである。
わずか5歳で謙信の養子に迎えられた顕景は、「卯松」の幼名から「喜平次顕景」の名乗りに改めた。「景」の一文字が下にある。これは謙信の後継者として遇されたと言っていい。
謙信はいずれ、自らの実権を顕景に譲ろうと考えていたようだ。だから三郎を養子とするにあたって、「景」の一文字を上に置くことは重要であったのだ。三郎景虎は象徴的貴公子として厚遇するに留め、喜平次顕景は越後長尾家の家督を相続する形を整えようとしていたのである。
※後編「【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス(2) ~ 武田家に意地悪だった謙信 」に続く。
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