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足利将軍に次ぐナンバー2!「三管領」と称された氏族たち

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 2020/03/09
三管領のイラスト

大方の組織はある最高位の役職を頂点としたピラミッド構造をしているのが一般的ですが、武家の政権である幕府も同様でした。 武家の棟梁たる者は伝統的に、朝廷より「征夷大将軍」に任官されて政権運営を委任されているという体裁をとっていました。

いわずと知れた「将軍」のことですが、もちろん全国規模にわたる広範で複雑な統治機構を維持するには、一人の決裁だけでは到底手が回りません。

そこで重要となるのが、将軍を補佐して政務を実行する副官の存在です。 鎌倉幕府であれば将軍に代わって、補佐役であったはずの「執権」が実効的な権力を握ったことがよく知られています。

それでは室町幕府では、どのような副官が将軍を補佐したのでしょうか。今回は足利将軍に次ぐ、室町幕府ナンバー2のポスト、「管領」についてみてみましょう。
(文=帯刀コロク)

「管領」とは

室町幕府においても副官的な職位は当初から存在しましたが、その始まりは足利家の家宰のようなものであり、「執事」と呼ばれていました。

執事として足利尊氏を補佐したのは「高師直」「仁木頼章」「細川清氏」らで、同時に尊氏の弟である「足利直義」が司法関連の影響力をもつという、複雑な権力構造でもありました。

執事の師直と直義は施政方針の違いからも対立し、やがて直義の勢力が退けられて二代将軍「足利義詮」の時代には執事への権力集約が進められていきます。

しかし執事職をめぐっての権力争いも頻発し、同時期には執事不在という将軍親政の時代もありました。 貞治元年/北朝・正平17年/南朝(1362)、当時十三歳だった「斯波義将」が父・高経の後見のもと執事に就任します。

斯波氏は足利氏の同族ではありましたが独立した鎌倉幕府御家人の家格であり、本来は同格でした。したがって、足利氏の家宰的な位置付けに収まることに難色を示したといわれています。

この頃に役職名が執事から「管領」に移行したという説があり、「天下を我がものとして領有し支配する」といった意味合いを含ませています。

三代将軍「足利義満」の時代には制度として管領職が置かれ、幼少の義満を補佐するため「細川頼之」が管領として就任します。ここにポストとしての管領が確立したとか。

細川頼之像(『前賢故実』より)
細川頼之像(『前賢故実』より)

康暦元年/北朝・天授5年/南朝(1379)に頼之が失脚すると、二代・義詮の執事であった斯波義将が、応永5(1398)年には「畠山基国」が管領に就任、以降「細川氏」「斯波氏」「畠山氏」の三氏が交代で管領職を務める体制ができあがっていきます。

「三管領家」とは

上記のように、室町幕府において管領職を三家が持ち回りしたため、これを「三管領」と呼ぶことがあります。 以下、それぞれがどのような氏族なのかを概観しておきましょう。

斯波氏

斯波氏は足利尊氏の高祖父にあたる「足利泰氏」の長男、「足利家氏」が宗家から分かれたことに始まる一族です。

尾張・遠江・越前などを代々領有した有力守護であり、足利宗家に準ずる家格をもち鎌倉幕府内では御家人として足利宗家とも同格といえる家でした。

「斯波」という名字は室町時代になってからの名乗りで、始祖・家氏が陸奥国斯波郡に所領を持ったことに由来しています。 当主は代々「左兵衛督(さひょうえのかみ)」などに任じられるのが慣例であり、兵衛府の唐風名称をとって「武衛」家と呼ばれました。

管領 斯波氏の略系図
管領 斯波氏の略系図

細川氏

細川氏は足利氏の支流の家であり、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷を領有したことに由来する名字です。

室町幕府草創期である観応元年/北朝・正平5年/南朝(1350)に足利政権内紛「観応の擾乱」で四国方面平定に功のあった「細川頼之」が管領となり、畿内・四国など八か国を領する有力守護に成長します。

頼之以降の当主は代々「右京太夫(うきょうだゆう)」などに任じられ、京職(都の警察機構)の唐風名称から「京兆(けいちょう)」家と呼ばれました。

細川京兆家の略系図
細川京兆家の略系図

畠山氏

畠山氏は武蔵国を本貫地とする武家で、桓武平氏と清和源氏の二系統がありました。

武蔵国男衾郡畠山郷の領地が名字の由来で、平姓畠山氏は断絶しますが足利宗家筋がその名跡を継承し、源姓畠山氏として足利一門に列することになります。

三管領の中では最後に管領職に参入した一族ですが、足利一門として斯波氏に次ぐ高位の家格とされ、大和の一部や紀伊・河内等々畿内周辺の重要地域の守護となりました。

管領を務めた畠山氏は代々「左衛門督(さえもんのかみ)」などに任じられ、衛門府の唐名をとって「金吾」家と呼ばれました。

管領 畠山氏の略系図
管領 畠山金吾家の略系図

まとめ

室町幕府は将軍の権威と財政基盤に不安があり、有力な守護による連合政権の体裁で維持されたものと解釈されています。

将軍を補佐して実質的な政務・軍務を司る管領には強力な足利一門を配し、基盤強化に努めた痕跡もうかがわれます。

しかし、やがて管領の制度は弱体化し、応仁元(1467)年に畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発した「応仁の乱」が勃発。

管領家「細川勝元」と四職「山名宗全」との勢力争い、八代将軍「足利義政」の後継争いなどを巻き込み、戦国時代到来の原因のひとつとなったことはあまりにも有名です。


【参考文献】
  • 『図説 室町幕府』 丸山裕之 2018 戎光祥出版
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 「室町幕府管領制度について」『学習院史学(7)』 村尾元忠 1970 学習院大学
  • 『国史辞典.附録(系図)』 重田定一 編 1899 普及舎


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