武将の名前はなぜ長い?戦国時代の名前のルールを解説
- 2018/10/24
学校の歴史の授業で習う武将の名前って、例えば「武田信玄」や「上杉謙信」のように「苗字」+「名前」の組み合わせで、現代人と同じ感覚ですよね。しかし、戦国時代の武将には幼名があり、元服して諱をもらい、諱で呼ばれるかと思いきや官職名で呼ばれたり……という具合に、当時の名前は結構複雑です。
本記事では、武将の長い名前はどんな構成なのか、当時はどのように呼ばれていたかを紹介します。
本記事では、武将の長い名前はどんな構成なのか、当時はどのように呼ばれていたかを紹介します。
「苗字」+「名前」だけじゃない
歴史の教科書などではシンプルに苗字と名前の組み合わせで表記される戦国武将ですが、実はそれは正式な名前ではありません。正式に表記したらかなり長くなるのです。例えば織田信長で説明してみましょう。正式な名前を表記してみると、
「平朝臣織田上総介三郎信長(たいらのあそんおだかずさのすけさぶろうのぶなが)」
となります。長いですよね? では、この長い名前がそれぞれどういう意味を持っているのか、詳しく説明してみましょう。
本姓(氏)
信長の例で説明すると、「平」が本姓となります。本姓とは本来の姓を意味しています。つまり信長の本当の苗字は「平さん」ということ。「平」氏は平安時代から続く氏で、藤原、源、橘と並ぶ「四姓」のひとつで、とくに平氏と源氏は天皇の皇子が臣籍降下することで賜った姓です。ということは、信長の先祖はあの平氏なのか?と思うかもしれませんが、戦国時代の武将は出世するために「平」姓や「源」姓、または「藤原」姓を偽称することが多く、信長の本姓も実は平ではないというのが通説です。信長の祖先・出自については以下の記事に詳しく載せています。
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・・・とはいえ、室町ごろまでの武家社会は由緒正しい四姓の流れにある武家がほとんどでした。戦国武将でその流れにあるのは、たとえば武田信玄です。武田氏は清和源氏の流れのひとつ、「河内源氏」の一門とされています。
武田信玄を現代風に本当の名前で表すとするなら、「源晴信」となるわけです。
かばね(姓)
かばねとは、氏族の序列を表す称号(姓)です。日本の古代からある仕組みで、簡単に言うと爵位のようなものです。爵位では「公爵」がトップで「男爵」がもっとも位が低いことを表していますが、それと同じようにかばねにも8種類あり、上から「真人(真人)」「朝臣(あそん)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置(いなぎ)」の順となっています。ただ、実際に賜ったのは上から4つだけだったようです。
これを信長の例で説明すると、「朝臣」にあたります。上から2番目の身分であることがわかりますね。
苗字
続いては、やっとなじみがある苗字です。信長で説明すると、「織田」にあたる部分です。なぜ本姓とは別にこういった苗字ができたかというと、もともと氏を持っていたのは貴族などの特権階級のみで、氏の種類もとても少なかったのですが、子孫が増えるにつれて「氏」ではなく「家」を意識するようになり、各分家が違う名を名乗るようになります。
それがすでに平安時代からあり、「藤原北家」などもその一つ。同じ「藤原」でも「冷泉家」や「九条家」「近衛家」などに分かれていったように、氏は時代を経ていくつもの家の名(苗字)に分かれていったのです。
通称(官職+名前)
通称とは、いわゆる字(あざな)です。本名ではなく、普段呼ばれる名前のこと。信長の通称は「上総介」と「三郎」です。上総介とは地方長官のこと。つまり官職を意味します。一方、三郎は「仮名(けみょう)」ともいいますが、普段気軽に呼べるような名前です。たとえば、『真田丸』において「真田信繁(真田幸村)」は「源二郎」と呼ばれたり、「左衛門佐(さえもんのすけ)」と呼ばれたりしていましたね。正式な名は「真田左衛門佐源二郎信繁」(※本姓は源氏ですが、ここでは省いています)となります。同僚には官職で呼ばれることが多く、家族には仮名で呼ばれることが多かったのです。
官職は出世とともに変わるので、このフルネームも通称の部分が変わっていきます。
諱(忌み名)
諱とは、本当の名前(真名)のこと。「信長」が諱にあたります。この諱は元服した際に主君から賜ったり、父から名付けてもらったりする名前。主君や父親から一字をもらうことが多く、信長も父の「信秀」から一字をもらっています。諱は「忌み名」ともいうように、実際に呼ぶことは憚られる名前です。通常は名前(諱)では呼ばない
諱は口に出す名ではなく、基本は通称で呼ばれることを説明しました。時代劇などでは視聴者にわかりやすくするために「信長様」、「謙信公」というように、諱に敬称をつけて家臣が呼ぶ描写がありますが、実際にはあり得ないことです。自分よりも位が高い人に対しては尚のこと諱で呼ぶことはタブーでした。諱で呼んでいいのは主君や親くらいでした。
諱はその人の本当の名を表すので、その人格までも支配すると考えられました。他者に支配されることがないように、むやみに呼ばれたり、名を知られたりすることが憚られたのです。
諱(真名)は軽々しく呼ばないから女性の名前は歴史に残りにくい
このように、歴史に名を刻む有名な武将ですら、生前は諱で呼ぶことが憚られていたわけです。もちろん男性だけでなく女性も他者に軽々しく名前を教えるようなことはしませんでした。女性は表に出ず、家の中にいる存在だったので、その名を知るのは夫や親類、近しい人々くらいのものです。政治の表舞台には出ないため、位が相当高い人物でない限り、女性の名前は歴史に残りにくいのです。
【参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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