騎馬隊は馬から降りて戦った!?戦国時代、出陣した時の装備とは?

戦国時代の合戦は馬にまたがって戦う武将が印象的ですが、合戦に挑む武将・雑兵・足軽たちはどのような装備をしていたのでしょうか?

本記事では、戦国期の合戦の装備について、衣服・具足(甲冑)、馬、武器・武具に分けて簡単に紹介していきます。

具足(甲冑)と衣服

戦国時代の衣服については、「直垂」や「小袖」については以前に紹介しました。合戦においても、これらを着用します。



日本の鎧には「大鎧」「胴丸」「腹巻」「当世具足」など、いくつか形式があります。

大鎧

大鎧は最も格式のある正式な鎧と言われています。主に上級の武士のスタイルで、大将クラスで騎乗する武士が着用したもの。兜・胴・袖から構成されています。

大鎧をまとう池田恒興の肖像画(右田年英画)
大鎧をまとう池田恒興の肖像画(右田年英画)

衣類はふんどしの上から小袖を着用し、下は大口袴を着用します。髪は髷をほどき、烏帽子をかぶって鉢巻をしめます。両手には革製の手袋をつけ、足は足袋を着用。そしてこの上から直垂を着ますが、鎧用の直垂は袖口が狭くなっており、両手両足の袖は絞れるように紐がついています。

衣服の上から脛あて、貫(つらぬき)という沓を身に着け、左肩から手首にかけては籠手を着用します。その上から胴・袖の鎧を着用し、最後に兜をかぶります。

当世具足

当世具足(とうせいぐそく)とは、室町以降によく使われた鎧です。それまでの戦にはなかった鉄砲のような新型兵器から身を守るために改良されたもので、それまでの鎧とは区別され、このように呼ばれました。

当世具足の場合、具足下着となるのはシンプルな筒袖と小袴です。そこに足袋を履き、麻や木綿の脚絆を着用します。直垂は身に着けません。

大鎧と同じように、具足下着の上から脛あてを着用します。その上から腰には佩楯(はいだて)を、両手には籠手を、肩には満智羅(まんちら)などを着用。そこから胴・袖の鎧を着用します。

また、ドラマなどでは顔が見えなくなるためか使用されていませんが、面頬(めんほう)といって顎や喉をまもるための面を着用しました。よく展示されている鎧についている黒くてこわい面がありますよね、あれのことです。顔全体を覆うもの、下半分だけを覆うものなど種類がいくつかありました。

兜と面頬
兜と面頬

雑兵・足軽はどんな姿?

身分の低い雑兵・足軽が身に付けた具足は、武士に比べると簡素であったと考えられますが、実は戦国時代の具足で現存する資料が少ないため「確実にこうだった」と断言することはできません。

よくイメージされるのは、陣笠に胴丸や腹巻、籠手に陣羽織を着用していたとされます。鎧はほぼ鉄製であったといわれています。

現存する戦国時代の合戦図や、映画・ドラマを見ると、馬に乗って戦う武士が登場しますよね。上級の武士は歩兵の雑兵・足軽と違って騎馬で出陣したと考えられますが、実際に騎馬で戦ったかどうかは不明です。

というのも、現代の時代劇に出てくるようなサラブレッドではなく、戦国時代にはポニーのような小さな馬しか日本にはいなかったからです。荷物を運ぶなど力はありましたが、どの程度騎馬として役に立ったのかはわかりません。

一部騎馬隊はあり、隊長クラスは馬に乗っていたようですが、戦国時代の合戦では馬から降りて戦ったと宣教師のルイス・フロイスも著書に記録しています。

ポニーに乗る少女
ポニーに乗る少女

テレビ番組でも源平合戦などで騎乗したまま戦えたのかどうか、資料を再現して検証するものがありますが、数十キロもある鎧を身に着けて小柄の馬に乗って戦うのは大変です。合戦が始まったら馬は馬備えにおいておき、使用するのは主に伝令や退却時だったといわれています。

武器・武具

武将の持ち物としては、軍扇・軍配団扇などがあることを以前紹介しています。


上級武士、大名クラスは自ら先陣を切って最前線で戦うということは基本的になく(鼓舞するためなど例外はある)、大将は本陣にドンと構えて指揮を執る立場でした。大将には甲持役人、太刀持役人、弓持役人、敷皮持役人といった家人が付き従い、本陣では彼らがそばに控えて武器を持っていました。

ここでは、実際に戦う兵が持っていた武器を紹介します。

武士といえば刀、ですが、実は戦国時代の合戦で敵を死傷させたのはほとんどが弓・鉄砲、投石などの飛び道具であったとされています。刀は敵が近距離に迫った際に使用するもので、組み伏せたとき、首を取るときなどに使われました。刀は折れやすく、鎧を切ることも難しかったようです。

弓矢

集団戦が基本の戦国時代の合戦で主力武器として活躍した弓矢。足軽隊は弓矢・槍・鉄砲を訓練し、実戦に臨みました。同じく飛び道具である鉄砲と組み合わせて使用し、鉄砲の弾を込める間に弓を射るなど、攻撃が絶えないような工夫がされました。

鎌倉時代までは弓矢・刀が戦での主力武器でしたが、鎌倉時代後期ごろから長槍が主力武器として活躍し始めます。一般的な「武士=刀」というイメージとは裏腹に、強い武将は弓か槍の名手であることが多かったのです。

名高いのが、「槍の又左」の異名をもった前田利家や、天下三名槍のひとつ「蜻蛉切」を愛用した本多忠勝など。まさに槍は武士の強さの証であり、合戦の接近戦では大いに活躍しました。

「蜻蛉切」の名の由来は、戦場で槍を立てていたところ、飛んできたトンボが当たって2つに切れたとか
「蜻蛉切」の名の由来は、戦場で槍を立てていたところ、飛んできたトンボが当たって2つに切れたとか

鉄砲

最後に鉄砲です。戦国時代に伝来した鉄砲は、信長が合戦で3000もの鉄砲をそろえ、3人一組の三段撃ちによって長篠の戦いを征したことは有名ですね(※実際は三段撃ちは後世の創作であったともいわれる)。この鉄砲を扱ったのは雑兵や足軽でした。

足軽の鉄砲隊
足軽の鉄砲隊

食料

戦で大事なのは、身を守る装備や攻撃するための武器だけではありません。「腹が減っては戦はできぬ」ということわざ通り、食料がなければ戦うことはできません。

よく籠城戦などの城攻めでは、補給を絶つ「兵糧攻め」が作戦として行われますね。野戦においても、兵糧は出陣する際に必要な持ち物でした。合戦においては、兵糧は人馬によって運びます。運搬されたのは、主に米・塩・大豆戦場では足軽などは握り飯や芋がら縄といった野戦食を常に携帯していたようです。


【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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匿名
確かに147cm以下はポニーに分類されるので間違いではないと思うのですが図のような100cmぐらいの一般的に想像されやすいサイズではなく130ぐらいの比較的大型なものだと思うのですが
2024/03/23 06:57