※ この記事はユーザー投稿です

関ヶ原でわかれた岡山城主3人の命運をたどる

 2022年11月にリニューアルオープンした岡山城。岡山駅からすぐでアクセスも良いため観光でも人気があるスポットです。岡山城が今日にいたるまではさまざまな出来事がありましたが、特に戦国時代には城主が複雑に入れ替わり、それぞれの運命は大きく異なりました。そんな岡山城をめぐるエピソードを簡単にご紹介したいと思います。

築城は宇喜多家

 岡山城を築いたのは宇喜多直家です。岡山城付近には川が流れ、三つの丘があり、防備が固いことから本拠地とし、その子秀家が今に残る岡山城の原型を築きました。

 実は豊臣秀吉の指導で築いたとも言われており、ところどころ大坂城にも似た部分があったと言われています。そのことからもわかる通り、宇喜多秀家は秀吉からの信頼も厚く、秀吉が養子とし一番可愛がっていた豪姫を正室にしています。しかし関ヶ原の戦いで大敗。宇喜多秀家は八丈島に島流しとなってしまい、岡山城は取り上げられる形になってしまいます。

代わって入城したのが小早川秀秋

 関ヶ原の戦いでキーマンとなったのがご存知の通り小早川秀秋です。元は秀吉の正室・高台院(ねね)の甥であり、秀吉からは親族としてかわいがられていました。後に小早川隆景と養子縁組しましたが、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に寝返り、これがきっかけで西軍は大崩れすることに。

 家康からしてみれば功労者でもある小早川秀秋は、関ヶ原後に備前・美作の領主として岡山城に入城しました。本丸の拡張や城下町の拡大・整備などさまざまな改革や政策を行いましたが、関ヶ原からわずか二年後の慶長7年(1602)に急死していることの方が知られています。秀秋の死により、小早川家は断絶することになりました。

 その死にもさまざまな憶測がありますが、関ヶ原で西軍を裏切ったことにより呪われた…なんていうエピソードも語り継がれています。自らの行動を悔いてお酒に依存したり、精神を病んでしまったという話もありますね。一説によると、秀秋は岡山城内にて家臣を次々と斬ってしまい、その血が染み出してくる「開かずの間」もあったのだとか。実際は不明ですが、わずか21歳の若さで狂死したのは悲しい出来事だったかもしれません。

その後岡山の基礎を築いた池田家

 小早川家が断絶となったため、次に城主となったのは播磨姫路城主池田輝政の次男忠継でした。しかし忠継は幼少であり、幼年で死去したためその弟の忠雄が入封となりました。

 水路、川の整備や城下の整備、そして大がかりな改装などを行ったのは、五代城主となる池田光政です。自ら先頭に立って政治改革を行い、教育や災害対策などに力を入れ、岡山の基礎を築きました。池田光政は江戸時代初期の名君としても知られており、住民などからも信頼が厚かったそうです。

 その次の池田綱政も、新田開発や治水事業などに力を入れました。岡山城に隣接する「岡山後楽園」という名庭園をつくったことでも知られています。その後、明治になるまで池田家の善政は続いたと言われています。

戦乱の中明暗が分かれた城主

 今までさまざまな歴史を乗り越えてきた岡山城。戦国時代の領主は明暗別れる形になってしまいました。岡山城は戦争で焼失しましたが再建され、今では川沿いに佇むその姿が美しいと評判の観光スポットです。リニューアルオープンして見ごたえがある展示を見ることもできるので、観光にもおすすめです。訪れた際には城主のエピソードにも思いを馳せつつ、岡山の穏やかな空気を楽しんでみてはいかがでしょうか。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ゆかた さん

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。