紫式部の夫「藤原宣孝」 年の差婚と突然の死別
- 2023/12/22
紫式部の夫・藤原宣孝(ふじわらののぶたか、?~1001年)はどんな人物だったのでしょうか。紫式部とは親子ほど年齢差があり、既に複数の妻がいて、長男は紫式部とほぼ同年代。花山天皇のもとで蔵人を務め、紫式部の父・藤原為時と同僚だった時期もあります。
出世は順風満帆、世渡り上手でプレイボーイの一面も垣間見えます。しかし、紫式部との結婚生活は長く続きませんでした。何があったのでしょうか。そして、『源氏物語』誕生のきっかけとは?
宣孝の生涯、紫式部との関係に迫ります。
出世は順風満帆、世渡り上手でプレイボーイの一面も垣間見えます。しかし、紫式部との結婚生活は長く続きませんでした。何があったのでしょうか。そして、『源氏物語』誕生のきっかけとは?
宣孝の生涯、紫式部との関係に迫ります。
『枕草子』派手な衣装で御嶽詣で
藤原宣孝は藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の三男。天暦年間(947~957年)、950年代生まれと推定できます。紫式部とは20歳前後離れていたようで、天延元年(973)生まれの長男・隆光は紫式部とほぼ同年代です。天元5年(982)には六位蔵人に就き、その後も筑前守、大宰少弐、山城守と受領職(地方長官)を歴任。右衛門権佐にも就いています。位階は正五位下まで上り、紫式部の父・藤原為時と同じく受領階級、中級貴族です。
ちなみに、紫式部の祖母(藤原為時の母)と宣孝の祖父・藤原朝頼は同母兄妹(または姉弟)であり、2人はまたいとこの関係でもあります。
自由な思考、目立ちたがり屋?
正暦元年(990)3月末、藤原宣孝は長男・隆光と御嶽詣でに出かけます。修験道の霊地・金峯山寺の蔵王権現(奈良県吉野町)への参詣で、通常は質素な浄衣姿で行くものですが、宣孝父子は派手な服装で参詣し、人々をあきれさせます。その一件が清少納言『枕草子』に書かれています。宣孝:「つまらないことだ。人と同じような格好で参詣して何のご利益があるのだ。まさか、御嶽の蔵王権現も『貧相な身なりで参詣せよ』とはおっしゃるまい」
清少納言は「身分の高い方でも格別粗末な身なりで参詣するものだと聞いている」と前置きしつつ、この年6月に宣孝が筑前守に任官し、世間から「なるほど、宣孝の言葉に間違いはなかった」と評判になったことを指摘。自由な考え方と実行してしまう思い切りの良さ。目立ちたがりでもあり、これが宣孝の性格のようです。
少女時代?紫式部との出会い
歌集『紫式部集』に、紫式部と藤原宣孝の出会いかと思われる和歌の交換があります。〈おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの 空おぼれする朝顔の花〉
(どうも気になりますわ、昨夜の方なのかどうなのか。明け方の薄暗い空のようにぼんやりと、そらとぼけた朝のお顔を拝見して)
〈いづれぞと色分く程に朝顔の あるかなきかに成るぞ侘しき〉
(ご姉妹のどちらかから贈られた朝顔かと見定めているうちに肝心の朝顔の花があるかないかのようにしおれてしまい、何ともわびしいことです)
詞書(ことばがき、和歌の前書き)から、方違え(かたたがえ)で滞在した男が部屋に忍び込み、翌朝、その男に朝顔を贈りつつ、「すっとぼけているようですが」と挑みかける和歌です。勝ち気で、少女の面影を残した紫式部が若々しいのですが、この男性を後の夫・宣孝と解釈する説には賛否両論あります。貴重な思い出として、自身の歌集にさりげなく夫を登場させた可能性はあると思いますが……。
返歌の「色分く」(見分ける)の対象を姉妹と解釈するかどうかも意見が分かれます。紫式部は早くに姉を亡くしたとみられ、姉妹とすると、少女時代の話になります。
「方違え」はこの時代の貴族の風習で、外出の際、方位神がいる方向を避け、いったん別の方角に向かうこと。『源氏物語』では出会いのきっかけにもなります。第2帖「帚木」の光源氏と空蟬の出会いも方違え。また、和歌の交換は第3帖「空蟬」の光源氏と軒端荻との出会いの場面や、第4帖「夕顔」冒頭なども連想させます。
紫式部の皮肉、嫉妬の裏返し?
長徳2年(996)、父・藤原為時の越前守任官に伴い、紫式部は父に付いて越前で暮らしますが、翌年秋ごろ、京に戻ります。これは藤原宣孝との結婚準備のためとみられます。このころ、宣孝は積極的にアプローチしていたようです。雪解け待つ色男の恋の駆け引き
紫式部は越前にいるころ、言い寄ってくる男性に和歌を贈っています。この男性はもちろん藤原宣孝とみられます。〈春なれど白嶺の深雪いや積もり 解くべき程のいつとなき哉〉
(春になったけれど、白い嶺の雪はまだ積もっていていつ解けるか分からない。私の心がうち解けるにもいつになるか分かりませんよ)
宣孝は越前に手紙を送って紫式部を口説きますが、紫式部は雪の歌枕・白嶺(しらね、加賀の白山)を持ち出し、「知らね」(知らない)と返します。一見つれない返事ですが、春の雪解けを待つように恋の駆け引きは宣孝の方が数段上。なにしろ、宣孝は分かっているだけで3人の妻がいて、ほかの女性との噂もありました。モテ男でプレイボーイだったようです。
『紫式部集』は続けて次の和歌を掲載しています。
〈水うみの友呼ぶ千鳥ことならば 八十の湊に声絶へなせそ〉
(湖の友を呼ぶ千鳥さん、同じことならば、あちこちの湊でも声をお絶やしになりませんように)
相手を千鳥になぞらえて「あちこちの女性に声をかけたらいいじゃないの」と促します。もちろん本心ではなく、詞書には「近江守の娘に言い寄っていると噂に聞く人が、ふた心なし(浮気心はありません)などと言い続けているのがわずらわしい」とあり、宣孝の浮気心がかなり気になっていたようです。
年齢差20歳 紫式部はファザコン?
2人の結婚は長徳4年(998)ごろ。紫式部は天延元年(973)生まれとすれば、26歳前後。当時の女性としては晩婚です。藤原宣孝は45~47歳くらいでしょうか。紫式部のファーザーコンプレックスを指摘する見方もあります。紫式部は母について書いたものがなく、早くに母を亡くしたとみられます。父からは漢籍(中国の書籍)の知識をしっかり受け継ぎ、人づき合いが苦手で気難しめの性格は父譲り。また、『源氏物語』の中では光源氏と若紫、秋好中宮、玉鬘といった年の差恋愛をいくつか書いています。
一方、為時と宣孝は同じ受領階層で年齢も近く、花山天皇の六位蔵人として同僚でしたが、性格は正反対。宣孝は社交的で世渡り上手、派手好きな色男です。
紫式部にとっては、父とは違って面白みがあり、ツッコミを入れたくなるようなところにひかれたのかもしれません。
順調だった宣孝の人生
藤原宣孝は右衛門権佐に加え、山城守を兼任しました。山城守は賀茂祭りにも参列するようで、長保元年(999)11月11日には臨時祭りの総稽古「調楽」で会心の出来を披露。また、同月27日には、勅使として豊後・宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に赴き、長保2年(1000)2月に京に戻ってきたとき、藤原道長に馬2頭を献上。長保3年(1001)2月には勅使代理を要請されますが、痔を理由に辞退しています。このころの宣孝の動向は、藤原道長の日記『御堂関白記』や右大臣・藤原実資の『小右記』、権大納言・藤原行成の『権記』などからちょこちょこ分かります。
急死の悲しみから『源氏物語』誕生?
藤原宣孝は長保3年(1001)4月25日、疫病で急死します。50歳手前で仕事は順調。紫式部との間に娘も生まれたばかりでしたが、その結婚生活は3年ほどで予期せぬ終焉を迎えました。塩釜の煙に荼毘に付された宣孝を重ねる
〈見し人の煙となりし夕べより 名ぞむつましき塩釜の浦〉
(あの人が荼毘に付されて煙となった夕べから、その名に親しみを覚える塩釜の浦です)
歌枕である塩釜の浦(宮城県塩竈市)の煙と、遺体を焼く煙とを重ねた紫式部の和歌です。塩釜の浦の煙は製塩のために藻を焼く煙で、紫式部が実際に見たことはなく、絵や和歌からの想像でしょう。紫式部は正妻ではなく、藤原宣孝を火葬する現場に立ち会っていない可能性もあり、その寂しさ、むなしさからまったく関係ない煙も亡き夫の死を連想し、心の整理がつかない状態だったかもしれません。
『紫式部集』には、ほかにも宣孝と死別した悲しみを詠んだ和歌があります。別の妻の娘から庭に咲いた桜の枝と手紙を贈られ、その返事としての和歌があり、血のつながらない義理の娘とも悲しみを共有したことがうかがえます。
心細さ、寂しさを紛らわせた物語の世界
紫式部は藤原宣孝との死別後、長保4年(1002)ごろ、『源氏物語』の執筆を始めます。『紫式部日記』では、夫と死別した心細さを物語の世界に没入することで紛らわし、同好の人と心を通わせた心の動きを回想しています。具体的ではありませんが、物語同好会の仲間との交流から物語執筆に向かい、物語について仲間と語り合ったようです。物語に没頭することで心の空白を埋めていたのです。
宣孝との死別は『源氏物語』誕生の動機になったのです。
おわりに
紫式部の結婚生活はわずか3年間でしたが、夫・藤原宣孝は楽しませたり、やきもきさせたり、心をかき乱す存在でもありました。一見、突き放したような紫式部の和歌は、男性が情熱的に求愛し、女性がいなすという和歌のセオリーもありますが、それだけでなく、年下の紫式部にツッコミを入れさせたり、優位な立場に立たせたりして、恋愛をコントロールするテクニックも感じさせます。なかなかの色男です。【主な参考文献】
- 伊藤博ほか校注『土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』(岩波書店、1989年)
- 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA、2020年)角川ソフィア文庫
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
- 植田恭代『コレクション日本歌人選044紫式部』(笠間書院、2012年)
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