「紫式部」2024年大河ドラマ”光る君へ”の主人公 中宮の女房として貴族も注目の文才…その華麗で謎多き生涯とは?
- 2023/12/06
『源氏物語』作者・紫式部は平安時代を代表する女流文化人。2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公で、藤原道長との関係も気になるところです。一条天皇の中宮で道長の娘・彰子に仕える女房として宮廷で活動しますが、生没年や実名、晩年の状況など不明な部分も多く、ミステリアスな一面もあります。手掛かりは『紫式部日記』と歌集『紫式部集』。謎多き生涯を追ってみましょう。
※『紫式部日記』:紫式部が記した日記。宮仕え中の寛弘5年(1008)秋から同7年(1010)正月に至る足掛け3年の見聞や感想を記したもの。
【目次】
漢詩をすらすら 聡明な少女
生まれた年は不明。天禄元年(970)、天延元年(973)、天延2年(974)、天延3年(975)、天元元年(978)と諸説あります。天延元年説を採れば、26歳で結婚し、翌年くらいに出産。29歳で夫と死別。33歳前後から47歳ころまで宮仕え。『源氏物語』は30歳前後で書き始めたと推定できます。
※『源氏物語』:紫式部が創作した、全54巻にも渡る長編の物語。主人公・光源氏の一生と、その一族たちの様々な人生を70年余にわたって構成。平安貴族の生活や恋愛模様を描く。
ちなみに、紫式部の人生に大きく関わる藤原道長は康保3年(966)生まれ。7歳ほど上となるでしょうか。
「紫式部」はペンネーム 実名は「子」の付く名?
紫式部は実名ではなく、「女房」( = 宮中に部屋を与えられた女官の総称)としての呼称です。女房名は多くが父や夫、親族の官職に由来。「式部」は父・藤原為時の式部丞にちなむようです。「紫」は『源氏物語』のヒロイン「紫の上」からとすると、「紫式部」はペンネームとみることもできます。
また、中宮・藤原彰子に出仕したときに女房名が付いたとすれば、為時のより新しい官職・越前守か、亡夫・藤原宣孝の山城守に由来するのが自然。既に女房名を持っていた可能性があります。『今鏡』には、藤原道長の妻・源倫子に仕えた経歴が示されています。
異論もあって、女房名が必ずしも近親者の直近の官職にちなむとは限らない例があり、彰子に出仕したころの紫式部は宮仕えになじめず、経験者とは思えないとの指摘もあります。
紫式部の実名は不明。娘は「賢子」で、本人も貴族の女性に多い「子」の付く名だった可能性はあります。
弟の横で漢籍暗唱「男子でないのが残念」
父は藤原為時(ふじわら の ためとき)。母は藤原為信の娘。姉と弟・惟規(のぶのり)がいます。母と姉は早くに亡くなっています。父母ともに藤原北家ですが、摂関家とは別の系統です。 父・為時は学者としては有能な中級貴族。『紫式部日記』によると、紫式部が子供のころ、為時は惟規に漢籍(中国の書籍)の朗読を教えましたが、覚えは遅く、隣で聞いていた紫式部はすらすらと覚えます。しかし、漢籍の教養は女性には不要。
為時:「残念だ。お前が男子でないのが、私の運のなさだよ」
年の差婚と早すぎる死別
長徳2年(996)、越前守に赴任した父・為時とともに越前国府・武生(福井県越前市)へ。この任官は為時の漢詩に感心した藤原道長の推薦がありました。長徳3年(997)秋か翌年春に帰京。為時の任期満了前であり、結婚のため帰京したようです。長徳4年(998)か翌年正月ごろ、右衛門権佐兼山城守・藤原宣孝(のぶたか)と結婚。宣孝は40代で既に妻子もいました。年齢差は一回り以上。一人娘・賢子が生まれますが、宣孝は長保3年(1001)4月、病死します。
中宮・彰子の教育係 才能と人間関係
20代半ば、当時としては遅い結婚。そして、2年数カ月か3年ほどで夫と死別し、幼い一人娘を抱え、シングルマザーに。それから間もなく『源氏物語』を書き始めたとみられます。『源氏物語』には、夫の死後の心細さが回想されています。詩歌や日記文学に比べて格が低いとされた物語が慰めとなり、同好の仲間もいました。悲しみを背負いながら物語を創作したエネルギーと才能は相当なものです。
宮仕えは道長のスカウトか
寛弘2年(1005)12月、中宮・藤原彰子の女房に。寛弘3年(1006)説もあります。彰子は藤原道長の長女で18~19歳。紫式部の宮仕えは道長の要請、口利きがあったと推測できます。道長は父・為時を越前守に推薦した恩人。既に『源氏物語』を執筆していた紫式部の才能を買い、彰子の教育係としてスカウトしたのです。
彰子より先に中宮になった皇后・藤原定子(藤原道隆の長女)の女房には清少納言がいて、文化サロンとしてもにぎやか。定子は一条天皇との間に3人の子を産みますが、長保2年(1000)12月に崩御します。
一方、彰子は長保元年(999)の入内から6年、懐妊の兆候なく、一条天皇との仲を緊密にしたい道長の「テコ入れ策」が紫式部の登用なのです。
同僚とぎくしゃく? 欠勤5ヵ月
寛弘2年(1005)か寛弘3年(1006)の年末から宮仕えを始めましたが、翌年正月10日ころ、出仕を促す同僚との間に和歌がやり取りされています。紫式部は早々に引きこもりになったのです。『紫式部集』にある5月5日の節句に関する和歌でも紫式部を心配する同僚とのやり取りがあり、欠勤は5ヵ月続いたようです。紫式部は既に『源氏物語』作者としての評判があり、同僚の目を過剰に気にしていたのかもしれません。同僚の陰口に憤慨している和歌もあります。
後一条天皇誕生に立ち会う 『紫式部日記』
寛弘5年(1008)、彰子は21歳で懐妊。出産を控えて実家・藤原道長邸「土御門殿」に里帰りします。紫式部も同行し、寛弘5年9月の皇子誕生とそれに続く祝い事などを記録したのが『紫式部日記』です。皇子に小便かけられ、大喜びの道長
誕生した皇子は敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇です。藤原道長にとって待ちに待った外孫誕生。長和5年(1016)、9歳での即位後は道長が摂政として権勢を振るうことになります。喜びもひとしおで、夜中でも早朝でも女房たちのところに行き、皇子を抱き上げます。乳母が寝ぼけていてもお構いなし。あるときは皇子におしっこを引っかけられますが、それにも大喜び。
道長:「この濡れた着物を火にあぶる。これこそ念願かなった心地だ」
紫式部はこうした道長の姿も観察し、記録しています。
内裏に盗賊 頼りにならない弟
寛弘5年(1008)11月、紫式部は彰子に従って内裏に戻りました。その年の大晦日(おおみそか)、夜中にとんでもない悲鳴が聞こえてきます。彰子の様子を確認するため、同僚の1人をたたき起こし、別の1人を先に立たせ、ぶるぶる震えながら部屋を出ると、女房2人が裸でうずくまっています。内裏に盗賊が侵入、着物をはぎ取られました。
警備の男も不在。紫式部は刀自(とじ、雑用係の女官)に弟・惟規を呼んでくるよう命じます。
「殿上の間に兵部丞という蔵人がいるから呼んできて!」
ところが惟規は既に帰宅していました。
「肝心なときに役に立たない弟だ」
心の中でなじるのです。
「日本紀の御局」揶揄された文才
左衛門の内侍という女房が紫式部に「日本紀の御局(みつぼね)」とあだ名をつけて言いふらします。「日本紀(日本書紀)を講義する局さま」というあだ名は「女性なのに漢文の教養をひけらかしている」という揶揄。『紫式部日記』では「漢字の一の横棒も引いたことがない」と反論していますが、知っているけど漢字は書かないという変な自慢になっています。
『源氏物語』は作中、和歌800首弱が詠まれますが、漢詩は登場しません。光源氏が漢詩を作る場面では披露する者が感激しながら読んだと見事さをたたえるものの、作品そのものは出てきません。これも漢字を知らないふりをする態度に徹したものです。
天皇も上級貴族も高い関心
ところが、『源氏物語』には、漢詩の名作の風景を意識した描写など端々にその知識が生かされています。一条天皇も「この作者に日本書紀を読み説いてもらいたい。漢文の素養があるようだ」と評価しています。また、寛弘5年(1008)11月1日、皇子(後一条天皇)誕生50日の祝宴に上級貴族たちが集まり、酔った左衛門督・藤原公任(きんとう)が女房たちに近づき、たわむれます。
公任:「このあたりに若紫はいるのかな」
紫式部:「光源氏に似た人もいないし、まして自分が紫の上だなんてとんでもない。聞くだけ聞いて何も答えなかった」
『紫式部日記』はこう書いています。藤原公任は歌人としても有名な知識人で、かなり身分の高い貴族。紫式部が軽くあしらっているのは冗談を言い合える仲だった可能性もあります。
40代死去説も 晩年は不明
寛仁3年(1019)ごろまで中宮・彰子に仕えていたという見方がある一方、長和3年(1014)死去説も根強くあります。この年、父・為時は越後守の任期を残して帰京。紫式部が死去したためとする見方があります。紫式部の弟・惟規は寛弘8年(1011)に死去。次々と子に先立たれた為時の失意の帰京という解釈です。為時は長和5年(1016)に出家しました。
紫式部の没年はほかに万寿2年(1025)以降とか長元3年(1030)以降とする説もあり、享年は40歳前後か、50代か60代か不明なのです。
まさか? 栃木県に紫式部の墓
紫式部の墓と伝わる場所は京都市にありますが、栃木県下野市の天平の丘公園にも「紫式部の墓」と伝わる石塔があります。鎌倉時代の様式で、当然「ありえない」というのが常識的な見方。では、まったく可能性がないかといえば、紫式部は中級貴族出身で、国司となった親族あるいは再婚相手とともに遠く東国で晩年を迎えたとしても、それほど飛躍した想像でもありません。晩年の状況は不明なのです。
おわりに
紫式部は権力者の間近で華やかな宮中生活を送り、その才能も高く評価されました。平安時代のど真ん中を生きた成功者には違いありません。しかし、人間関係は若干不器用で、自意識過剰で陰口に神経質。現代女性が共感できる「普通の人」の側面もあります。結婚生活は短く、夫や母、姉、弟と身近な人との死別やシングルマザーとしての苦労もありました。その悲しみや苦労が超巨編物語を生み出すパワーに昇華したのなら、その才能はやはり人並み外れていたと言うしかありません。
【主な参考文献】
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
- 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
- 植田恭代『コレクション日本歌人選044紫式部』(笠間書院)
- 与謝野晶子訳『日本文学全集1源氏物語』(河出書房新社)
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