命を賭して将軍に直訴した義民・佐倉惣五郎が怨霊に?!その真相は?
- 2023/09/22
江戸時代前期、厳しい年貢に苦しめられていた農民を救うため、命を懸けて将軍に直訴した惣五郎という農民がいた。年貢は減税されたものの、惣五郎は家族もろとも処刑されるという最期を遂げる。領主を恨みながら死んでいったという彼の魂は、やがて怨霊となり藩主に祟る。
1人の農民でありながら、最も有名な義民として伝説になった佐倉惣五郎とはどのような人物なのか。果たして実在していたのか。今回は、歴史上最も有名な義民である惣五郎の伝説とその真偽について考えてみたい。
1人の農民でありながら、最も有名な義民として伝説になった佐倉惣五郎とはどのような人物なのか。果たして実在していたのか。今回は、歴史上最も有名な義民である惣五郎の伝説とその真偽について考えてみたい。
佐倉惣五郎の伝説とは?
佐倉惣五郎の伝説は『地蔵堂通夜物語』と『堀田騒動記』などの写本により広まっていった。まずはこれらの本に沿って佐倉惣五郎の伝説を紐解いてみよう。厳しい年貢の取り立てに疲弊する農民たち
ときは慶安4年(1651)、3代将軍家光が亡くなり、幼き4代将軍家綱に変わったばかりの頃。家光に殉死した佐倉藩(現・千葉県佐倉市周辺)藩主・堀田正盛の後を嫡男正信が継いだ。その年の秋から年貢が上がり、さらに新しい税が課せられた。これにより、多くの農民が年貢を納められずに路頭に迷う。翌年になると更なる増税が課せられた。すでに疲弊しきっていた農民たちは、藩の役人や代官に減税を訴えたが、全く聞き入れてもらえない。そこで佐倉公津村の名主たちが佐倉藩江戸屋敷へ訴え出ることを決意した。
江戸へ向かう名主たち
157人もの名主が江戸へ入り、佐倉藩江戸屋敷の門前に集まり嘆願するが、全く相手にされない。 そこで幕府へ直接訴えるしかないと考えた彼らは、佐倉惣五郎(木内惣五郎・宗吾とも)と他2名が代表して老中・久世大和守に駕籠訴をし、一旦は訴状が受け入れられたのだが、結局訴状を取り上げてもらえることはできなかった。
惣五郎の覚悟
落胆した名主たちであったが、惣五郎が「このうえは将軍に直訴するしかない。自分が命を捨てる覚悟で直訴をする」と言い、直訴状をしたためた。もちろんほかの名主も惣五郎だけに命を捨てさせるつもりはなかったが、彼の決意は固かった。家綱が上野寛永寺に参詣するという情報をつかんだ惣五郎は、他の名主と別れの盃を交わし、前夜から参詣の通り道にあたる三橋というところに忍ぶ。
直訴決行
将軍の行列が通り過ぎる。徒目付の列が通り過ぎたとき、惣五郎が橋の下から這い出してきた。一間(約1.8m)ほどの竹の先に直訴状を挟み「下総国印旛郡佐倉領の農民ら奏上たてまつる!」と叫びながら将軍の駕籠に近寄った。しかし厳しい警護でなかなか駕籠に近づくことはできない。近寄ろうとするたびに押し倒され、体中傷だらけになる惣五郎。それでもあきらめず何度も起き上がり、直訴状を差し出し、ついに将軍駕籠の側にいた役人が直訴状を取った。
目的を遂げた惣五郎は、将軍の駕籠を拝みその場を離れていったという。
直訴状の行方
直訴状は無事将軍のもとに届き、佐倉藩へ善処するように命令が下りたが、これに怒ったのが藩主の堀田正信だった。思わぬ恥辱を受けたと言い、惣五郎以下名主6人を捕縛したのである。正信は「このような直訴が起こったのは、国元の役人がしっかりと務めを果たしていないせいである。佐倉から役人を呼び出し吟身の上、自分が切腹するか農民たちの願いを聞き入れて年貢を下げるか考えたい」と国元に伝えた。
罪人・惣五郎
吟味を受けた役人たちは、いずれも自分の非を隠し、惣五郎が極悪であることを訴え、直訴の張本人として処刑すべきと主張する。これを受け入れた正信は、惣五郎だけでなくその家族までに極刑という処分を下した。正信の処断に異を唱える家臣もいたが、おのれ可愛さが勝り藩主の言を覆すことはできなかった。直訴については、恐れ多い所業であり、その罪は大変重いものであるが、年貢その他の雑税については減税もしくは納め方について考慮するとの沙汰が下り、農民たちの願いはかなえられた。しかしその代償はあまりにも大きいものだった。
惣五郎については、夫婦は磔、家財・田畑は没収、惣五郎の子供は打ち首、すでに他家へ嫁いでいた娘2人はお構いなし。他の名主5人は追放、田畑は没収、家財は妻子に下げ渡しと決まる。
惣五郎の最期
処刑当日、磔にされた惣五郎と妻の目の前で子どもが打ち首になった。それを見ながら惣五郎は叫ぶ。「私は私利私欲で直訴をしたのではない。お前たち役人が私欲に走ったからだ。自分が命を捨てて万人の嘆きを救うしか方法がなかったのだ」
妻が叫ぶ。
「私の死体は朽ちて土になろうとも、この口惜しい思いはどうしてそのまま朽ち果てるものか」
惣五郎が叫ぶ。
「私の一念はここに留まり、正信を3年のうちに修羅の道に引きずり込んでやる。そして子々孫々に思い知らせてやる」
刑場に集まった人々は大きな声で念仏を唱えていると、にわかにかき曇り雷鳴がとどろき豪雨となった。惣五郎一家の遺体は、鳴滝山東勝寺の僧侶により埋葬された。
惣五郎の祟り
惣五郎の死後、堀田家では変事が続く。懐妊した正信の正室が変死、正信自身も幕府の許しなく勝手に国元へ帰るという暴挙に出た上、謹慎先の若狭小浜藩から勝手に上洛したため、阿波徳島藩へ預け替えられ、最後は鋏で首を刺して自害した。かろうじて残された堀田家は下総12万石から近江宮川藩1万石へ移封となる。この出来事は惣五郎の怨霊がなしたことに違いないと、多くの農民が噂したという。
義民・惣五郎
延享3年(1746)、佐倉藩主となった堀田正亮(堀田正信の弟の孫にあたる)は、将門山(現・血が剣佐倉市大佐倉)に社(口の明神)を建てて惣五郎を祀り、義民として讃えた。また惣五郎百回忌の折には、その社を増築し、惣五郎に「涼風道閑居士」という法名をつけている。その後も堀田家は惣五郎への供養を続けている。明治時代になり、千葉県成田市の東勝寺には、「宗吾様(佐倉惣五郎)」を本尊とする「宗吾霊堂」が建てられた。惣五郎は史上最も有名な義民となった。
伝説の真相やいかに
この佐倉惣五郎の一連の話はあまりにも衝撃的でドラマティックであるだけに、昭和の初めまではあくまで伝説のたぐいだと思われていた。しかし、宗吾霊堂に保管されていた史料から公津村の土地名寄帳が発見されたことでその見解が変わる。実在した惣五郎
土地名寄帳とは、検知した農地を農民別に面積や地目(土地の種類)を書き上げたものだ。この名寄帳で惣五郎の名義分が確認されたのだが、惣五郎分の土地は全部合わせると約三町六反にもなる。一町は約3,000坪、一反は約300坪なので、惣五郎は1万坪以上の土地を持つ豪農だったことがわかる。名寄帳によると、庄三郎に次いで2番目の土地持ちであった。この名寄帳が堀田正信の時代に作られたものだということもわかったため、惣五郎の実在が確かなものとなった。ただし、この惣五郎が、直訴を決行した人物かどうかを明確に記した史料は見つかっていない。
伝承される惣五郎
惣五郎が本当に直訴したのかはいまだわかっていないが、佐倉公津村で惣五郎に関する話が語り継がれていたことは確かである。惣五郎が処刑されたとされる年から約60年後に著された『総葉概録』では、
“堀田氏の城主たりし時、公津村の民総五(惣五郎のことか?)罪有りて戮せられしが、自ら寃(えん:ぬれぎぬ)と称し、城主を罵りて死し、時々祟(たたり)を現し遂に堀田氏を滅ぼす。因てその霊を祭り、一祠を建て総五宮と称すと”
と記されている。名前こそ若干の違いがあるが、惣五郎の話にほぼ合致する。
堀田氏の崇敬を受ける
惣五郎の怨霊に祟られた(かもしれない)堀田氏は正信の乱心により一時改易となるが、堀田正盛(正信の父)の偉功により正信の嫡男・正休がお家再興を許される。しかし佐倉藩藩主に戻ることはなかった。正信直系ではなかったが堀田氏が再び佐倉藩主となったのは、正信の時代から100年近く過ぎた堀田正亮のときだ。惣五郎は、正亮により義民となって以後堀田氏の篤い崇敬を受け続けた。文化2年(1805)正亮の後を継いだ正時は、惣五郎の子孫が貧窮に陥っていると知り、五合五石の土地を与えている。天保の改革や日米修好通商条約の締結時に活躍した堀田正睦は、嘉永5年(1852)に惣五郎の二百回忌法要を営んでいる。
封建社会の当時において、藩主が一農民に示したこれらの行動は、まさに異常としか言えない。やはり堀田氏は子々孫々に渡るまで惣五郎の祟りを信じ恐れていた、のではないだろうか。
あとがき
江戸時代を通じて年貢や飢饉、圧政に苦しんでいた農民を助けるために、我が身を犠牲にした惣五郎のような人は、多く存在した。中でも惣五郎はその後の怨霊伝説などからインパクトが大きく、かつ歌舞伎などの題材となったことで、全国に知られることになったのだろう。名もなき民衆にとっての救いの神となり、義民の代表に祭りあげられた惣五郎は、明治の自由民権運動にも利用されたという。そして現在、不穏な空気に満ちているこの世界で1人の力で変わることなど知れているが、それでもやはり惣五郎のような救世主を待ち望んでしまうのは、わたしだけだろうか。
【主な参考文献】
- 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』(崙書房、2005年)
- 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
- 渡辺修二郎 『佐倉義民木内惣五郎実録』(国会図書館デジタルコレクション、1908年)
- まちづくり支援ネットワーク佐倉 義民伝承「佐倉惣五郎物語」
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