「生類憐れみの令」が実際に行われたこと。お犬様優遇に江戸の庶民は大迷惑!?

 天下の悪法と言われる「生類憐れみの令」。犬の優遇措置とは、実際どのようなことが行われたのでしょうか。

「生類憐れみの令」は後世の名付け

 「生類憐れみの令」と言っても、当時単独でそのような令が出たのではありません。後世の我々が第五代将軍・徳川綱吉が出した生類に関する数々の法令をまとめてそう呼んでいるだけです。

 綱吉はなぜこのような法令を出したのか? 有名な話ですが、世継ぎ徳松をわずか5歳で亡くし、それ以来男子に恵まれなかった綱吉が、生母桂昌院も帰依していた真言僧隆光の言葉に縋ったからと言うのです。

「人に子が生まれないのは、前世で多くの殺生を行ったからである。子が欲しくば生類を憐み殺生を慎み、戌年である綱吉はとりわけ犬を大事にするように」

 この言葉がきっかけになりました。もっともこの話にも異論があり、綱吉の過剰な生類憐みの心は徳松を失う以前からあったとも言います。

 ともあれ、最初の法令は貞享2年(1685)7月に出された「将軍通行の折でも路上に犬猫が現れても差し支えない、つなぎとめる事は無用」とのものです。それまでは将軍がお通りになるときは、犬はつないで猫は押し込め、野犬を狩り集めて殺すことまで行われていました。

暴走し始める生類憐み令

 翌貞享3年(1686)2月には、馬の尾の先を縄で巻くのを禁止しています。これが馬にどのような影響があるのかよくわかりませんが、この後、馬に関する憐み令がいくつか続きます。

 翌貞享4年正月には「これまでは人や馬が重病になった時まだ生きているのにこれを捨てるものがあった。今後そのようなことを見聞きすれば訴えるように、貧しく看取ることが出来なければ町奉行などしかるべき者に届け出るよう」との発令です。

 人と馬を同列に扱っていますが、この法令以後、綱吉の生類憐みの令は暴走し始め、特に犬について細やか法令が出されます。

  • 大八車は犬を轢かぬよう注意せよ
  • 犬の喧嘩は水をかけて引き分けよ
  • 犬に芸を仕込んで見世物にしてはならぬ
  • 捨て犬はもちろん禁止
  • 患い犬・疵付き犬・孕み犬はもれなく犬医者に診せて治療せよ
  • 子犬が往来に出るときは危なくないように母犬を付けてやれ

などなど・・・知らんがなと言いたくなりますが、これが大真面目に行われました。

 これで人々が犬を大事にするようになったかと言うと反対で、犬と関われば金がかかる下手をすればお縄になる、こっそり犬を捨てる人が続出します。ただでさえ野犬が多い江戸の街はみるみる野犬だらけになってしまいました。

お犬様のお住まい

 幕府は江戸の街はずれや近郊に野犬収容の大規模施設を建て始めます。

 元禄5年(1692)、喜多見に犬小屋を建てたのを手始めに、同8年(1695)には四谷大久保にも新設、これらは敷地面積2、3万坪もの大規模施設でしたがそれでも収容しきれず、8月には中野に丸亀藩京極高成・津山藩森長成にお手伝い普請を命じて、さらに大規模な犬小屋を建て始めました。

 突貫工事で10月末には完成、犬の収容が始まります。節無しの高級檜材で駕籠を作り黒金物を打ち、中には厚地の座布団を敷いてお犬様に乗っていただきます。駕籠には御小人目付が従い人足に担がせて、毎日何千匹もの犬を中野へ送り込みます。道では役人が「片寄れ片寄れ」と先払いし、町人はもちろん大名行列まで道を譲ります。朝晩白米を盛大に炊き、長屋住まいの人間が味噌汁と飯せいぜい漬物のところを、犬には朝晩魚を一匹付けしてやりました。

 工事はその後も翌年(1696)の2月まで続けられ、総工費20万両・敷地面積16万坪・25坪づつの犬小屋290棟・7坪半づつの日除け場295棟・子犬養育所459棟が設けられます。

お犬様のご待遇

 1日犬1匹につき白米3合、10匹につき味噌500匁・干し鰯1升づつと定められます。

 元禄8年(1695)12月の勘定書きでは、犬1日の食料総計米330石・味噌10樽・干し鰯10俵・薪50束との膨大なものです。この養い料として幕府領の村々からは100石に付き1石、江戸町人からは小間一間に付き金3分づつの献納を命じます。

 その後もこの犬屋敷は拡張され続け、最終的には敷地面積29万坪・10万犬の野犬を収容します。それでも増え続ける野犬は収容しきれず、江戸近郊の村々に年間1匹に付き金2分を与えて面倒を見させました。ある村では163戸のところへ犬651匹が押し付けられます。

 では収容された犬たちは幸せだったのでしょうか。もともと人間の残り物を食べてそこらを気ままに駆け回って生きていた犬たち、白米に尾頭付きの魚に塩辛い味噌を与えられ、小屋で寝てばかりの生活では残念ながらたちまち病気になって死んでしまう犬が続出しました。

綱吉死す

 犬にこれほどの金を使われただけでも大迷惑ですが、江戸の町人たちはもっと直接の被害にあっています。

 犬が大事にされ、人間が軽んじられる世の中、犬が人に襲いかかっても殴ることもできません。憎しみは犬たちに向かい、こっそり犬を傷つけたり打ち殺す人間が出てきますが、見つかればお犬様を殺したとして死罪になりました。密告も奨励され、元禄9年(1696)には本所相生町の町人が犬を殺したとして ”さらし首” になり、その密告者には金30両が与えられたとか。

 宝永6年(1709)正月10日、騒動の大元である犬公方・綱吉が亡くなります。世継ぎや側近に

綱吉:「生類憐みに限っては、100年の後も自分が世に在った時のように守るのが孝行である」

と言い残しますが、六代将軍・家宣は綱吉が息を引き取ると直ちに諸法令を廃止、犬を害した罪で獄中に捕らわれた人たちを解放します。

 綱吉の葬儀は雨天続きを理由に22日まで日延べされましたが、本当の理由はこの悪法をすべてなくしてからでなければ葬儀も行えないからでした。

 やっと法を恐れずに暮らせるようになった人々のこれまでの恨みは犬に向けられ、あちこちで石を投げられ撃ち殺される犬が続出します。本当に怒りが向けられるべきは、幕閣の中枢にあって綱吉の機嫌を取り、悪法を施行した柳沢吉保や松平輝貞ら側近ですが、彼らに手出しができない以上、人々は犬に怒りを向けるしかありませんでした。

おわりに

 為政者は時々妙な命令を発して国民を困らせます。それが独裁者ともなればなおさらで、このお犬様騒動は遠い昔の話でも無いようです。


【主な参考文献】
  • 谷口研語『犬の日本史』吉川弘文館/2012年
  • 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社/2022年
  • 楠木誠一郎『江戸の御触書』グラフ社/2008年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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