政商・小佐野賢治 昭和を席巻した天才商人の知られざる素顔

 ロッキード事件の国会証人喚問で「記憶がございません」を連発して世に知られるようになった小佐野賢治氏ですが悪役のイメージが強いと思います。しかし東急グループの総帥、五島昇氏は小佐野賢治を「経営者の鑑」と尊敬していたことをご存じでしょうか?

 昭和という時代の経済界で暴れまくった、国際興業グループ創業者の小佐野氏ですが、彼の素顔は案外に知られていません。そこで政商・小佐野賢治氏の素顔を語ってみたいと思います。

極貧の出身

 小佐野賢治氏は大正6年(1917)2月15日に現在の山梨県甲州市勝沼町に生まれました。しかし生家は貧しく、家も無い有様でした。仕方がないのでお堂に寝たり、長く家を空ける人がいたら、その家に暫く住まわせてもらう、という状態だったそうです。

 賢治少年は体格が良く、肝っ玉も座っており、近所のガキ大将でした。

賢治少年:「おい、にぎり飯を持ってこい!」

 子分の子供に言って家族の食事を持ってこさせたりしたそうです。貧しいながらも、早くも人を動かす力は並大抵ではないことが分かります。

 そんな賢治少年の父は ”伊作” という行商人で、話がうまく、周りの人達を笑わせるのが得意な人でした。「また伊作やんのホラ話が始まった」と、周りから、からかわれながらも、彼のする話は面白くて人気があったそうです。しかし話に夢中になりすぎるからか、商売はまるでダメという人でもありました。

 賢治少年が尋常小学校に上がると、伊作は「勉強しろ!」とうるさく言い立てたそうです。あまりにうるさいので賢治少年は紙に筆で文字を描き「ほら、ちゃんと文字も、もうかけるずら」といって伊作を感心させたそうです。喜んだ伊作は、賢治少年の書いた文字を周りの人達に見せて自慢したそうですが、その紙には「伊作のばか」と書いてあったそうです。実は伊作は文盲だったのです。

 賢治少年は成績も良く、常に上位で体育も強く徒競走で県代表にもなりました。相撲も強く上級生はおろか、先生ですらも「理屈に合わない」と思えば、飛びかかって組み伏せたそうです。

 尋常科を卒業後、高等科に進み、昭和6年(1931)に卒業することが出来ました。成績は常に上位5位以内でしたが、素行不良が原因で優等賞はもらえませんでした。

14歳で上京

 昭和6年(1931)に、いわゆる満州事変が起きました。賢治少年は父親にせがみます。

賢治少年:「百姓なんてやれんずら満州へ行かせてくれ。ダメなら東京でもいい」

 すると、伊作は地主である辻家に頼み、辻家の長男の辻昇一氏が東京で経営している本郷商会という自動車部品店で賢治少年が働けるように手配してくれました。上京する賢治少年に向かって伊作は励ましたそうです。

伊作:「いいこんでも、悪いこんでもいいから日本一になってこい!」

 本郷商会の辻社長は慶応大学法学部出身で度胸も据わった辣腕経営者でした。銀行の勧誘員が来たり、商売敵が文句をつけに来ても実にうまく、あしらって追い返してしまうのです。賢治少年はそういう場面になると必ず、聞き耳を立てて、やりとりを聞いていました。こうして「商売のやり方」を実地勉強していったのです。

 この時期の賢治少年のエピソードで「トラックで寝ていた」というのがあります。賢治少年はアパートを借りていたのですが、そこには帰らずに会社の配達トラックの中で寝ていたのです。その理由は「アパートにいたら水道代や電気代がかかる」という理由でした。

 このケチぶりは生涯、変わることはなかったのですが、

賢治少年:「なんとか親兄弟に楽させてやりたいんや。そのためだったら何でもする」

と言っており、事実、小佐野氏の兄弟愛は熱烈な物があり、生涯にわたって変わることはありませんでした。そんな彼に同僚たちも感心こそすれ、賢治少年を卑下するようなことはありませんでした。

 そして3年後、賢治少年は本郷商会の扱う自動車部品についての知識や経理の知識など全てを身に付けると、商工社という別の自動車部品会社に移ってしまいます。これはスカウトされたからですが、もう本郷商会で学ぶべきことは無いと考えたからでもあるそうです。

 商工社で賢治少年は全てを取り仕切り、実質的な経営者の立場で仕事を始めます。そして、なんと本郷商会の顧客を次々と奪い取っていったのです。

やり方は「本郷商会より安く売る」という単純な手でしたが、その効果は絶大でした。商工社はみるみる繁盛し、本郷商会は窮地に陥ります。しかし、1年後に突然、商工社は倒産。賢治少年も姿を消しました。

徴兵検査と兵役

 当時は20歳になると徴兵検査というのがありました。甲、乙、丙に分けられ、甲種合格は「最も適正あり」となり、徴兵される可能性が一番高かったのです。どこにいたのか20歳になった小佐野は山梨の故郷に徴兵検査を受けに帰ってきました。それも、なんとハイヤーに乗ってきたのです。

 当時、ハイヤーというのは非常に高額で金持ちしか乗れなかった物ですので皆、びっくりしました。一体、商工社で何があったのかは未だに不明ですが、帰郷した小佐野の羽振りの良さは凄いものでした。両親のために立派な家を新築し、小佐野家の人達の身なりも以前とは比べ物にならない位によくなったのです。

 こうしたことから商工社の倒産は計画倒産ではないかとの憶測も流れましたが、事実は不明です。しかし甲種合格となった小佐野氏はすぐに徴兵され、中国の北京へ派遣されます。その輸送船の中で言っていたそうです。

小佐野氏:「お国のために死ぬなんて、馬鹿げたことじゃ。俺は必ず内地に戻ってやる」

 兵隊となった小佐野氏は万事に付け、動きが鈍く「仕方なくやっている」感じが目立ち、上官たちから度々、粛清を食らいます。

 軍隊というのは兵隊同士、連帯責任でもあるので、同じ班の仲間からも小佐野氏は嫌われていきます。そして、一番使えない兵隊がやる「担架兵」という、負傷した兵士を担架に乗せて運ぶ係を命じられます。

 そして実際に2万人以上の中国国民政府軍との戦いになり、部隊員1500人のうち、生き残ったのは僅か20人というひどい敗北になりました。担架兵であった小佐野氏は戦闘には加わらなかったために助かりましたが、参加していたら高確率で死んでいたでしょう。

 戦いが終わったのち、小佐野担架兵は夥しい死体を担架に乗せて収容しました。その中には小佐野にひどい粛清を加えた上官達も混じっており、さすがの小佐野氏も大声で泣きながら作業を続けたそうです。

除隊と起業と思わぬ幸運

 ある日、小佐野氏は「胸が痛え、胸が痛え」と訴えて野戦病院に入院します。小佐野担架兵の日頃の行状に呆れていた軍医は、すぐに「急性気管支炎」という診断書を書き、内地に送り返します。無事に日本に戻ってきたのですが、その診断書には「本人苦痛を訴えるも所見なし」と書いてあったそうです。内地に戻ってから陸軍病院を転々とし、昭和14年(1939)9月に遂に除隊となったのです。

 小佐野氏は一旦、故郷の山梨に帰るも、再度上京して自動車部品の会社を起業します。太平洋戦争が始まり、自動車部品が軍需品に指定されると、小佐野氏は故郷の大物代議士・田辺七六氏を訪ね、後見人になってもらい、軍需省の指定業者となります。軍需省の指定業者になれば再度、徴兵されることはないため、商売に専念することができるようになったのです。

 そして小佐野氏は軍需省との商売で巨富を築き上げます。軍需省では代金は前払いだったので、その札束をリュックに詰め大阪に行き、大阪で部品を大量に買うことで値引きさせ、そうして仕入れた部品を軍需省に収めていたのです。

 その差益は一か月に200万円あったそうです。当時の200万円は現在の価値に換算すると、なんと20億円に相当します。

小佐野氏:「買い叩いた訳ではない。大量に買うことで値引きをさせたんだ」

 小佐野氏はこう述べていたそうですが、専門分野だからこそ、出来る技だったのでしょう。しかし戦時中でもあり、電車の切符が簡単には買えません。そこで憲兵隊の指揮班長であった上原秀作分隊長に近づき、至れり尽くせりの沢山のお土産を上原分隊長に献上し切符の手配をしてもらっていました。本来は、切符の手配が目的だったのですが、これが思わぬ幸運を招きます。

 昭和20年(1945)8月15日、玉音放送とともに日本の敗戦が決まりました。すると上原分隊長は小佐野を呼び「材木があるから、全部やるよ。トラックで持っていけ」と言ったのです。

 実はこのトラックには通称「幻の千円札」と呼ばれる、れっきとした日本銀行発行の紙幣が山と積まれていたようなのです。非常時の緊急準備用として製造された幻の千円札は実際に同年の8月17日に正式に発行が開始され、翌年の3月2日まで発行された紙幣で、僅か半年間ですが正式に発行されたものです。紙幣は使用禁止の布告が出ない限り、有効です。つまり幻の千円札は発行が終わっても使用禁止の布告が出ない限り千円として通用するのです。

 当時、銀行員の月給が80円という時代です。一体、このトラックに積まれていた金額がどれくらいだったのか、想像もつかないほどです。後に小佐野氏が東急グループの総帥、五島慶太氏から箱根の強羅ホテルを買った時に支払った500万円は全て、この幻の千円札であったそうです。

 上原分隊長は敗戦を知るや、この大量の千円札が米軍の手に渡ることを怖れたものと思われます。その後、上原分隊長は国際興業の社員となり、最終的には日本電鍵の社長となります。

俺の嫁さん

 軍需省の商売で儲けていた小佐野は、それと同時に軍人、官僚とのコネも深めていったのですが、その中に宮内省次官の白根松介男爵がいました。小佐野氏は白根夫妻をたびたび帝国ホテルのレストランに招いて会食をしていましたが、目的は「俺の嫁さんに華族の娘を紹介して下さい」というものでした。

 当時、華族が結婚する時には宮内省の許可が必要でした。ですので、どうしても白根男爵のつてが必要だったのです。極貧家庭の出身ということもあったと思いますが、小佐野はとにかく「名門」が好きでした。戦後に帝国ホテル、日本航空などの名門会社の筆頭株主になったのも、この「名門好き」の結果です。

 小佐野には他に趣味というものが全くありませんでした。酒も食事もゴルフも「付き合いだからしている」という具合で別に好きでやっていた訳ではないのです。家では毎日、ごはんとみそ汁、めざしだけ、という食事をしており、家着は、よれよれの絣一枚だけ、という生活で、およそ贅沢とはほど遠い生活をしており、それは終生、変わることはありませんでした。そんな小佐野氏の唯一の趣味が「名門に対する憧れ」だったのです。

 白根次官も奥さんも小佐野のことを買っており、何とか希望を叶えてやりたいと思いましたが、中々、適当な候補は見つかりません。そんな折、白根次官の奥さんが「英子さんはどうかしら?」と言いだしました。

 英子さんというのは、旧下総佐倉藩主である堀田伯爵家の三女で美貌で有名な方でもありました。ただ、相当に勝気な性格が災いしてか、まだ結婚していなかったのです。小佐野氏のようなクセの強い人物には、むしろ勝気な性格の人の方が良いだろうし、あの美貌なら小佐野氏も文句は言うまいと白根次官の奥さんは考えたのです。この案は、いずれ実現することになります。

本社ビルを入手

 終戦直後の昭和21年(1946)小佐野氏は国際興業の本社ビルを東京中央区八重洲2丁目という一等地に構えます。元々、建っていたビルを手にいれたのです。

八重洲2丁目にある国際興業本社(出典:wikipedia)
八重洲2丁目にある国際興業本社(出典:wikipedia)

 この本社ビルの取得方法が実に巧妙ですので、書き記しておきます。

 元々、そのビルは北隆館という会社の所有でした。しかし終戦直後で使われていなかったのです。そこで小佐野氏は北隆館に「月10万円で貸してくれ」と申し入れました。北隆館としては使っていないビルなので「いいですよ」といって小佐野氏に貸すことにしました。

 すると、小佐野氏はビルの内装工事を行なって綺麗にし、

小佐野氏:「お宅のビルの内装を私が自前でやったんだから家賃は当分、払わなくていいよね?」

と言いました。北隆館は仕方なく受け入れました。何しろ終戦直後でビルの中は東京大空襲で焼け跡だらけだったのです。それを綺麗にしてくれたのだから文句は言えません。

 それから11年後、北隆館は経営が行き詰まり、銀行に3千万円の融資を頼みにいきます。すると担当の銀行員が「うちではお貸しできません。お宅のビルに入っている小佐野さんに頼んでみたらどうですか?」と言います。仕方なく小佐野氏の所に行くと、すぐに3千万円を貸してくれました。但し、その借用書には代物弁済として、そのビルが指定されていたのです。

 代物弁済というのは、借金を期日までに返せなかった場合、指定された物を渡すことで返済とする、という規定です。そして、北隆館は借金を返すことが出来ず、遂に、そのビルを渡さざるを得なくなってしまったのです。つまり、本来なら数億円は下らない物件を小佐野氏はわずか3千万円で手に入れたのです。

逮捕と遭遇

 昭和23年(1948)3月12日、突如として国際興業にGHQの憲兵隊が踏み込んできて小佐野氏は「ガソリン不正使用の罪」で逮捕されてしまいます。小佐野氏には全く身に覚えのないことでしたが、敗戦直後の当時、GHQの権力は絶対であり、誰も抵抗することは出来ません。逮捕された小佐野氏は留置場に入れられると、その後の取り調べは1年間にも及び、挙句の果てに有罪、そして刑務所に入れられてしまいます。

小佐野氏:「これは誰かにはめられたな…」

 心当たりなら、いくらでもありました。取り調べの1年間、小佐野氏はあちこちの警察署をたらい回しにされましたが、実はどこかの留置場で、のちに「刎頸の友」となる田中角栄氏と同じ留置場に入れられていたそうです。田中角栄氏も同じ頃に炭管疑惑という収賄罪で逮捕されており、やはり警察署をたらい回しにされていたのです。

 後日の話ですが、懐かしがったそうです。

小佐野氏:「ひょんな所で出会ったものだなぁ」

 死刑廃止の提唱者として知られる正木亮弁護士は白根男爵と付き合いがあり、小佐野氏の収監を知ると、正木弁護士に援助を依頼します。小佐野氏の収監されていた横浜刑務所の所長は偶然にも正木弁護士の元教え子であり、正木氏の申し入れにより、小佐野氏の刑務所内での扱いは丁重なものだったそうです。

 さらに正木弁護士の助力により刑期は1年3か月だった所を5か月で仮出所となり、無事に出所しました。箱根の強羅ホテルの買収以来、付き合いのあった五島慶太氏は赤飯を焚き、紋付羽織を着て小佐野氏を迎えにいったそうです。正木弁護士は田中角栄氏の顧問弁護士をしていたことから、あらためて二人を引き合わせます。

 これ以来、小佐野氏は田中角栄氏と深い付き合いをしていくことになるのです。

結婚

 昭和25年(1950年)、小佐野氏は堀田伯爵の令嬢、英子さんと結婚することなりました。何しろ堀田英子さんは「学習院、戦後最高の美女」とまで言われた美貌の持ち主です。英子さんの写真を見た小佐野氏は「ぜひ、英子さんを嫁に頂きたい!」と白根氏に申し込みます。完全に一目ぼれでした。

 敗戦となった日本では華族の生活は楽ではなく、没落する家も多く、堀田家も例外ではありませんでした。そこへ大富豪からの求婚です。引く手あまただった英子さんは小佐野氏を見て、強靭なたくましさを感じ、”この人なら大丈夫” と思ったそうです。そして、ついに英子さんも小佐野家へ行くことを決めてくれたのです。

 結婚が決まってから英子さんは当時、「世田谷の上野毛にあった小佐野氏の家を見たい」と言いだしました。大富豪の家とは、どんなものなのか興味津々でした。行って見ると立派な家が建っていました。何しろ、その家は経済界の重鎮、小林中氏が自宅として使っていた家であり、それを小佐野氏が譲り受けたものだったからです。しかし、その家から出てきた小佐野氏を見て英子さんはびっくりします。何しろ、よれよれの絣一枚という姿でした。とても1兆円を超える資産を持つ大富豪の姿とは思えませんでした。

 丸の内の日本工業倶楽部ホールで行われた結婚式で、小佐野氏が師と仰ぐ五島慶太氏がスピーチをしてくれました。

五島:「小佐野賢治君は金儲けは確かにうまい。だが品位が足りない。夫人は名家の出であり、この面でぜひ、小佐野君を教育して頂きたい」

 英子さんは小佐野家に嫁いできてから、さらにびっくりします。家には花瓶が一つも無く、小佐野氏はパーティの時に持ってきてくれた花束をバケツに突っ込んでいたからです。「花瓶を買ってもいいかしら?」と聞くと「そんなものは必要ない!」と言い返されて、英子さんは仕方なく実家から花瓶を持ってきたそうです。

 また彼女は料理が得意でした。いつも”ごはん”と”みそ汁”と”めざし”、という小佐野氏に、「たまには美味しい物を」と考えて、刺身を買ってきて出したのです。

 すると小佐野氏は

「お、刺身か。たまにはいいな」

と言ったかと思うと、

「どうして、こんなに分厚く切るんだ。刺身なんていのは薄いくらいでちょうどいい。刺身を分厚く切っていたら金は貯まらないよ」

といって英子さんに説教したそうです。

 当初は、そんな小佐野流に、あっけにとられていた英子さんでしたが、段々と慣れてきてくれました。小佐野氏は毎日のように側近を連れて帰宅しましたが、英子さんは、その出迎えの準備をかいがいしく、こなしていました。

 小佐野氏の頬に米粒が付いていると英子さんは、それをそっと取り、自分の口に入れました。それを見ていた側近連中は、うらやましくて仕方がなかったそうです。非常に仲睦まじい夫婦だったのです。誰の目にも、この状態はずっと続く…そう思えました。

2人の弟の死

 その後、小佐野氏は昭和の経済界で暴れまくります。

 箱根の富士屋ホテルで横井英樹と争い、山梨交通事件では堤康次朗と直接対決… といった具合に、あちこちでライバルと対決しながらも国際興業は順調に成長してゆきました。箱根の強羅ホテルの一件、以来、五島慶太氏を師と仰ぎ、政界に進出した田中角栄氏との仲を深め、次々と事業展開していったのです。

 そんな小佐野氏ですが国際興業では誰よりも早く出社し、玄関ホールのソファに座って新聞を読みながら、出社してくる社員全員に朝の挨拶を欠かしませんでした。また、国際興業の本社には冷暖房を入れませんでした。「外で働いている職員は暑さ、寒さに耐えて頑張ってるんだ。本社の職員だけ良い思いをすることは許されない」ということです。当然ながら自分自身も暑さ、寒さに耐えて仕事をしていました。

 また、国鉄や他社のバスがストライキを決行していても、国際興業バスは一度もストライキをした事がありませんでした。何故なら国際興行の社員待遇はとても良かったからです。

国際興業バス
国際興業バス

 また、小佐野氏の仕事ぶりも凄いものでした。一日中シャツを腕まくりして夜遅くまで忙しく仕事をし、昼はいつも盛りそば一枚だけという毎日でした。小佐野氏は厳しい経営者でしたが、社員には他社よりも、ずっと良い待遇を施しており、自分自身には非常に厳しくしていました。ですので、社員も小佐野氏を尊敬していたのです。

 2人の弟に対する愛情も変わりませんでした。しかし下の弟である定彦氏が、ある日、突然、国際興業の社室で倒れてしまいます。すぐに順天堂病院に運ばれましたが息を引き取りました。原因は肝臓の極端な機能低下で、要は「酒の飲みすぎ」でした。

 この時の小佐野氏の嘆きようは大変な物でした。定彦氏の好きだったオールドパーを何十本と応接間に積み上げ、皆を呼び、「定彦が一番好きだった酒だ。みんな、飲んでくれ」それ以来、小佐野氏はオールドパー以外の酒を口にしなくなり、小佐野氏の行きつけの店は、慌ててオールドパーを仕入れ、小佐野氏の来訪に備えました。

 また、上の弟である栄氏は、以前から肝臓がんを宣告されており、長く入院が続いていましたが、定彦氏の後を追うように翌年に亡くなります。栄氏については小佐野氏も覚悟をしていたらしく、定彦氏の時のように取り乱しはしませんでしたが、呆然自失状態に陥ったと言われています。

 小佐野氏は、残された弟である正邦氏と、栄氏の長男である隆生氏に望みを託します。特に若い隆生氏は小佐野氏の目に叶ったらしく、未来の国際興業を託すべく帝王学を叩き込み始めます。

ロッキード事件の発覚

 昭和51年(1976)2月4日、米国から一通の衝撃的なニュースが流れてきます。米国の上院議会で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(別名:チャーチ委員会)の公聴会でロッキード社が自社の航空機を売り込むために日本を含む各国の政府関係者にワイロを配った、というものです。その席上、小佐野賢治氏の名前も出されてしまったのです。

 国会では野党が猛烈な追及を始め、名前が公表された小佐野氏も証人として喚問されることになってしまいました。しかし国会は「法案決議の場」であり、取り調べの場ではありません。ですので、小佐野氏は以下答弁に終始します。

「記憶がございません」

 しかし、これが世の顰蹙を買ってしまいます。この後、小佐野氏は家にこもり、一歩も外に出ませんでした。ストレスでやせ細ってしまい、家の中を歩くにも杖が必要な状態になってしまっていました。

 そんな時に思わぬ事件が発覚します。英子さんには正治という弟がいたのですが、正治氏は姉が大富豪である小佐野氏に嫁ぐと「小佐野が死んだら俺が社長になるんだ。死ねば財産の大半は姉の物だが、女だから大半は俺に回ってくるよ」と吹聴しており、小佐野氏の名義で銀行から金を借りまくっていたのです。

 これを知った正邦氏は小佐野氏に伝えます。当然ながら小佐野氏は激怒しますが、英子さんも、そんなことは全く知らないことだったので「そんなこと私は知らないわよ」と言い返します。英子さんも勝気な性格です。

 この一件で、結婚以来26年間、あんなに仲睦まじかった夫婦関係が完全に冷え切ってしまい「仮面夫婦状態」になってしまうのです。

最後

 昭和61年(1986)7月下旬、寝ていた小佐野氏は急に下腹に刺すような痛みを覚えました。痛みは強く便所に行くのが、やっとでした。下痢であり、ひどい嘔吐が襲い何回も吐きました。

 小佐野邸には常時、秘書が泊まり込んでいるのですが、秘書を夜遅く起こすのはかわいそうだと思った小佐野氏は、そのまま便所で夜を明かします。朝になって小佐野氏のうめき声を聞いた秘書たちは、びっくりして病院の手配をします。あいにくと休日で、かかりつけの病院は休みだったので目黒の共済病院に入院したところ、「胆嚢結石」とのことで緊急手術が行われました。しかし胆嚢を開いてみると、癌に侵されていることが分かりました。手術後が終わり、麻酔からさめた小佐野氏は医師に言ったそうです。

小佐野:「おれの病気の内容をはっきり言って下さい。いつ死ぬのかもはっきり言って下さい。そうでないと身辺整理ができないからね」

 小佐野氏の言葉に負けた医師は癌であり、もう治療はできないことを告げました。

 それを聞いた小佐野氏はまず女性問題の整理をします。そして自分の机の中を紙切れ一枚も残さずに整理します。そして無理を押して帝国ホテルの役員会に出席します。その役員会が終わってから、小佐野氏は帝国ホテル前会長の木村氏に珍しく、しんみりした口調で言ったそうです。

小佐野:「心臓が悪いのと、子供がいないのが弱みなんだよ。10兆円もの財産を持って何不足ないだろうと言われるが、本当は寂しいんだよ……」

 昭和という時代を駆け抜けてきた怪物、小佐野賢治氏の本音が垣間見えた瞬間でした。

 その年の10月初旬、病状が悪化し虎ノ門病院に入院した小佐野氏は10月27日に69歳で亡くなりました。「刎頸の友」と称された田中角栄氏は、脳梗塞で既にまともに話もできない状態で刺激を与えないために、小佐野氏の死は知らされませんでした。

 小佐野賢治。こんな怪物のような人物はもう現れないかもしれません。昭和という激動の時代をたくましく生き抜いた男の素顔は意外にも質素倹約、質実剛健、兄弟や社員などの身内に対する愛にあふれたものでした。


【主な参考文献】
  • 大下英治『梟商 小佐野賢治の昭和戦国史』(講談社、1993年)
  • 木村喜助『田中角栄の真実』(弘文堂、2000年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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