伝説の人物「悪路王」とは何者か? 実在の人物とされる「阿弖流為」と同一人物なのか
- 2023/10/19
茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮には、首像・首桶が収められています。もしかしたら皆さんもテレビや教科書等で一度は見たことがあるかもしれません。その首像は「悪路王(あくろおう)」とも「阿弖流為(あてるい)」とも呼ばれてきました。(※首像参考:いわての文化情報大事典より)
伝説上の人物・悪路王と、東北の英雄とされる阿弖流為。この2名は同一人物という見方もありますが、真相は謎に包まれています。今回はこの2人にフォーカスしたお話です。
伝説上の人物・悪路王と、東北の英雄とされる阿弖流為。この2名は同一人物という見方もありますが、真相は謎に包まれています。今回はこの2人にフォーカスしたお話です。
蝦夷軍のリーダー「阿弖流為」
阿弖流為は、正式名称「大墓公(たものきみ) 阿弖流為」と表記されます。奈良時代末期から平安時代にかけて、現在の岩手県南部をまとめていました。当時、律令国家に従わない者たちを「蝦夷(えみし)」と言いましたが、阿弖流為は蝦夷の族長という立場でした。彼は律令国家が編纂した六国史に4回ほど名前が登場しています。「公」の姓を朝廷から賜っているため、蝦夷と律令国家の間で戦争が起きる前は、双方の関係は良好だったのではないかと考えられています。
阿弖流為が初めて書物に登場するのは、延暦8年(789)に起きた巣伏村での戦の時です。朝廷軍は、蝦夷制圧のため約4000人ほどの軍勢で東北に攻め入ります。蝦夷軍300人と対峙し、勢い付いた朝廷軍は引き下がる蝦夷軍を追いかけ、北に進みます。しかし進んだ先に800人、そして東の山上に400人の蝦夷軍が潜んでいました。
南北には蝦夷軍、東西には川と山という全く逃げ場のない状態に陥った朝廷軍は、蝦夷軍に翻弄され見事なまでに惨敗しました。圧倒的な軍の数、戦力の差がありながら、阿弖流為率いる蝦夷軍は、地の利を活かし勝利を収めたのです。阿弖流為がカリスマと言われるのも納得しますよね。
その後、幾度となく律令国家と蝦夷は戦いを繰り広げます。しかし長期化する戦争の中で、生活の場を荒らされ、徐々に兵を削られていった蝦夷軍は、延暦21年(802)についに降伏。これ以上の被害を出さないようにと、阿弖流為は自らの命と引き換えに東北の地を守ったのかもしれません。
現在、京都の清水寺には阿弖流為と、共に戦った族長の一人である「母禮(もれ)」の石碑があります。石碑は、平成6年(1994)に平安遷都1200年を記念して建てられました。清水寺に観光に行く際は、ぜひ探してみてくださいね。
このように東北の英雄と語られる阿弖流為ですが、処刑された後も「悪路王」として各地方の伝説の中に登場するのです。
伝説として語り継がれた「悪路王」
岩手県平泉町には、達谷窟毘沙門堂という国指定史跡があります。延暦20年(801)蝦夷征討の際に、坂上田村麻呂によって創建されました。このお堂には賊徒・悪路王の伝説が残されています。それによると、今から1200年ほど昔、悪路王と呼ばれる蝦夷の長と、赤頭、高丸がここに塞を構え、女子供を攫うなど、人々の生活を脅かしていました。そこで桓武天皇より征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、延暦20年に激闘の末、悪路王等の首を刎ねることに成功し、蝦夷を平定したというのです。
阿弖流為と同じ時期に坂上田村麻呂と交戦している点で同一人物だと思われますが、阿弖流為の首を実際に刎ねたのは坂上田村麻呂ではないため、やはり伝説として事実が飛躍しているのではないでしょうか。
この伝説は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記録されており、その他にも悪路王は多くの書物に伝説として語り継がれています。
書物によっては、悪路王の他に「悪来王」や「阿黒王」、「悪郎」等と表記されていることもあります。代表的な物語を2つほど紹介します。
御伽草子『立烏帽子』に描かれた悪路王
御伽草子は、鎌倉時代末期から江戸時代にかけて作成された絵入りの物語集です。その中の『立烏帽子』では、悪路王は悪鬼阿黒王として登場します。もはや人間ではなく、鬼の扱いとなります。『立烏帽子』では、坂上田村五郎利成という人物が登場します。おそらく坂上田村麻呂と藤原利成の2名が混同している名前かと思われます。この人物はおそらく空想上の人物だろうと言われています。
彼は、近江国鈴鹿山の女盗賊・立烏帽子を征伐するよう任じられます。立烏帽子に会いに行こうとしますが、立烏帽子は離島に棲んでおり、渡航の手段がありませんでした。そこで立烏帽子と矢文の交換をはじめます。
矢文によると、立烏帽子は陸奥に住む阿黒王と婚姻関係を結んでいました。しかし不仲になってしまったため、利成に阿黒王を討って欲しいと頼みます。そして阿黒王を討ってくれたら利成と契りを交わすというのです。
そもそも自分を征伐するように頼まれた人間と契りを交わすというのも不思議な話ですよね。あくまでもこれは伝説上のお話です。
立烏帽子に頼まれたように利成は、阿黒王を湖水で待ちます。そして現れた阿黒王は、頭が8つ、目がたくさんあった悪鬼の姿をしていたというのです。その後、無事に利成は阿黒王を退治し、立烏帽子と婚姻関係を結びます。
このように御伽草子では、阿黒王の姿は人ではなく、陸奥の山奥に潜む鬼として描かれています。人々にとって、東北に住む蝦夷たちは、未開の地に住む得体の知れない存在だったことでしょう。当時としては、得体の知れない存在のことを鬼として、御伽話に登場させることがよくありました。その一環で立烏帽子も、作られたのではないでしょうか。
『前々太平記』に描かれた悪路王
『前々太平記』とは、奈良時代から平安時代前期までの歴史を集めて編纂された軍記物です。著者は平住専安という人物で、江戸時代に作成されました。この軍記物では、これまでの悪路王の記載のされ方とは異なる部分が見受けられます。『前々太平記』によると、延暦20年(801)坂上田村麻呂は、高丸と悪路王と戦おうとしますが、2名は田村麻呂の武勇に恐れ慄き、逃げ帰ります。そして田村麻呂は2名を追い、高丸を殺し、悪路王を生け捕りにします。その後、田村麻呂は、胆沢に八幡宮を建立し弓矢を奉納しています。さらに達谷窟に寺を建て、多聞天像を安置した後に帰郷します。
前述したとおり、達谷窟にも悪路王の伝説が根付いているので、信憑性がありますよね。翌延暦21年(802)、坂上田村麻呂は、胆沢城築城のため奥州に再び赴きます。その際に大墓公、盤具公らが降伏し、坂上田村麻呂は600人ほどの蝦夷を連れて帰郷したと書かれています。この大墓公は阿弖流為のことであり、盤具公は阿弖流為と同時期に蝦夷の族長であった母禮のことを指します。
『前々太平記』では、悪路王と阿弖流為は完全に別の人物として、登場しています。この記述によると、阿弖流為とは別に悪路王が存在しているかのように読み取ることができます。これは、他の書物や伝説とは大きく異なる点です。
おわりに
悪路王とは誰なのか、伝説上の人物のためモデルがいたのかは分かりません。しかし、悪路王伝説に坂上田村麻呂と対峙した阿弖流為の存在が大きく影響しているのはたしかではないでしょうか。各地に残されている悪路王伝説は、史実と比較すると様々な歴史的矛盾があります。それは、御伽話の作者や伝説を口述してきた人々が阿弖流為はじめとする蝦夷集団を恐れ、恐怖の部分を誇張して語り継いだために時代背景が交錯してしまったのではないかと考えます。
もしかしたら悪路王のモデルは、阿弖流為だけではなく蝦夷そのものの姿だったのかもしれません。馬を巧みに操り、馬上から正確な弓矢を放つ蝦夷は、朝廷軍からすると大きな脅威だったことでしょう。そういった蝦夷に対するイメージが、悪路王という稀代の悪党を作り上げたのではないかと思います。
悪路王に関して、今回紹介したのはほんの一部になります。ぜひ皆さんも悪路王について調べてみてはいかがでしょうか。
【主な参考文献】
- 高橋崇『坂上田村麻呂』(吉川弘文館 、1959年)
- 定村忠士『悪路王伝説』(日本エディタースクール出版部、1992年)
- 達谷窟毘沙門堂別當達谷西光寺HP
- アテルイを顕彰する会HP
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