時を超える東北の守り 古代東北・神秘の城柵を解き明かす

秋田城(復元された外郭東門と築地塀)
秋田城(復元された外郭東門と築地塀)
 古代東北の歴史にまつわる本や小説を読んでいると、必ずと言っていいほど「城柵」や「◯◯柵」という言葉を目にします。「城柵」と書いて「じょうさく」と読むこの言葉は、あまり普段の生活では聞き慣れない言葉だと思います。しかし城柵は、古代東北の歴史を語る上で、とても重要な言葉なのです。

 城柵を知っていると、東北の歴史に関係する観光地を訪れた際に、更に理解が深まることでしょう。今回は、城柵についてお話していきたいと思います。

城柵と城

 城柵には、「城」という感じがあることから戦国時代や江戸時代に創建されたような石垣と天守閣を持つ城を想像するかと思います。しかし城柵には、高い建物も金の鯱も豪華絢爛な装飾もありません。

 そもそも城柵は、律令国家が蝦夷征討のため東北支配の拠点として東北地方の各地に設置した建造物のことを指します。古代の日本では、律令国家に従わない者との境界に柵を設置していました。

 例えば、663年に起きた白村江の戦いで、日本は唐・新羅に惨敗して以降、大陸からの侵攻に備え、西日本各地に朝鮮式山城を設置しました。朝鮮式山城とは、朝鮮からの築城技術を取り入れ、山の峰や斜面に築いた山城のことです。代表的なものだと、福岡県大野城や福岡県と佐賀県にまたがる基肄(きい)城などが挙げられます。

大野城(福岡県)の百間石垣
大野城(福岡県)の百間石垣

 西日本に築かれた柵は、大陸からの侵攻に備えたものですが、東北の城柵は、蝦夷(えみし)を征討することが目的として築かれました。同じ境界に建てられた城柵ですが、少々意味合いが異なっていたようです。

 城柵について、少しイメージが湧いてきたでしょうか?

 東北に初めて城柵が築かれたのは、大化の改新のすぐ後の大化3年(647)だと言われています。『日本書紀』には、現在の新潟県に「渟足柵(ぬたりのき・ぬたりのさく)」が造られたと残されています。そして翌年には、同じく新潟県に「磐舟柵(いわふねのき・いわふねのさく)」が造られました。現在、2つの城柵の正確な位置は分かっておらず、遺跡も発見されていないため、詳細は不明なままです。

 その後、律令国家はどんどん北上し、東北支配を広げていきます。太平洋側には、宮城県多賀城市にある多賀城(たがじょう・たがのき)、岩手県奥州市にある胆沢城(いさわじょう・いさわのき)をはじめとして重要な拠点となる城柵が次々に築かれました。

胆沢城跡。政庁地区回廊跡から東脇殿跡・正殿跡を望む(出典:wikipedia)
胆沢城跡。政庁地区回廊跡から東脇殿跡・正殿跡を望む(出典:wikipedia)

 7世紀中頃から9世紀にかけて、築かれた城柵は20以上とも言われています。平和に暮らしていた土地に、許可なく大規模な建造物がいくつも設置され、監視されていた蝦夷達は、とても不安だったことでしょう。その後、蝦夷を制圧し、律令国家が衰退する10世紀後半から11世紀頃に、城柵も終焉を迎えたと言われています。

城柵の構造

 さて、城柵の中はどのようになっていたのでしょうか? 城柵の中でも律令国家にとって重要拠点であったと言われる多賀城と秋田城を例に見てみましょう。

 多賀城は神亀元年(724)に大野東人によって築城されました。陸奥国府や鎮守府が置かれるなど、東北支配の重要拠点として11世紀中頃まで機能し、昭和41年(1966)に国の指定史跡として登録されました。東北の歴史を語る上では、欠かせない城柵のひとつです。

多賀城の政庁跡全景(出典:wikipedia)
多賀城の政庁跡全景(出典:wikipedia)

 多賀城は仙台平野を一望できる立地に建てられていました。高さ約5メートル程の塀で、一辺約900メートルの長さで囲まれており、中央には儀式を行う政庁(政治に関する仕事を担う役所のこと)がありました。高い塀で囲む構造は、古代東北の城柵の特徴の一つだそうです。

 東西南北には門があり、政庁の周りには、事務を行う建物や工房、警備をする者のための住居等があります。また、城外には、多賀城とともに創建された付属寺院があったようです。多賀城は、平安時代までに4度建て替えが行われています。

 秋田城の構造はどうでしょうか。秋田城は多賀城よりも9年後に創建されているため、多くの箇所で多賀城と似ている造りをしていて、現在の秋田県秋田市に造られていたと考えられています。立地的には、秋田平野を望む丘陵地に建てられており、基本構造は、高い塀で造られた外殻と、政庁を囲う内郭との二重構造となっています。

秋田城 第I期の政庁配置を示す模型(出典:wikipedia)
秋田城 第I期の政庁配置を示す模型(出典:wikipedia)

 秋田城で有名なのは、1994年から1995年にかけて発見された古代の水洗トイレです。建物の中には、直径約45センチメートル程の筒状の便器に、丸太をくり抜いて作ったパイプを埋めた便槽が、3つ並んでいたそうです。排泄物を上から水で流すと、手作りのパイプを通り、外にある槽に溜まるようになっており、上澄みが沼に流れる仕組みでした。

復元された秋田城 鵜ノ木地区のトイレ遺構(出典:wikipedia)
復元された秋田城 鵜ノ木地区のトイレ遺構(出典:wikipedia)

 秋田城の水洗トイレは、復元工事がなされて一般公開しているので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。当時の人々の暮らしを身近に感じることができますよ。奈良時代後期に、すでに水洗トイレを使用していたなんて驚きですよね。

 城柵の構造について、多賀城と秋田城を例に紹介しました。次に、当時の城柵がどんな役割を担っていたのかをみていきましょう。

城柵の役割

 城柵には、中央から派遣された城司が常駐していました。また、城司とともに兵士も駐屯しており、いつでも戦えるように蝦夷からの攻撃に備えていました。

 東北支配の拠点として築城された城柵は、どのような役割を果たしていたのでしょうか? 大きく分けて3つの役割がありました。

役所

 まずは役所としての役割です。城柵は、1960年代の発掘調査によって、城柵の中心に造られた政庁が当時の国府ととても似た造りをしていたことが分かりました。他にも外郭が土塁ではなく築地だったことから、役所の側面があったのではないかと研究者等の間で囁かれるようになったのです。

 現在で言うと、県庁や市役所といったところでしょうか。また、城柵の維持のために城柵近辺に郡を置き、他地域から柵戸(きのへ・さくこ)と呼ばれる強制移民を集住させていました。移民や郡の管理という点からも、城柵は政治に関する事務仕事をする場所だったのかもしれません。

軍事

 次に、軍事的な役割です。城柵の目的を理解すると、一番最初に連想しそうな役割かと思います。

 先述のように、城柵には兵士が常駐していて、いつでも戦争スタンバイOKといった状態でした。また、城柵の設置が蝦夷の反感を買い、戦争に繋がったとも言えます。蝦夷たちにとって軍事力を持つ城柵は、故郷の安全を脅かす脅威でしかなかったことでしょう。

交易の拠点

 最後に、交易という役割に関してお話します。城柵は、北方社会との交易の拠点だったとも言えます。蝦夷との関係において、常に戦闘状態だったわけではなく、蝦夷の中には律令国家に帰属を求める者もいました。このような蝦夷は、産物を貢納することで、饗宴を受け、鉄器や布、また官位や姓を授かることもあったようです。

 蝦夷だけではなく、大陸との交易の跡も発見されています。秋田城の水洗トイレからは、沈殿槽の中に豚食に伴う寄生虫の卵が発見されています。当時の日本人は豚食文化がなかったため、交流のあった渤海から使者が訪れ、水洗トイレを利用したということが考えられています。このように、城柵では蝦夷だけではなく大陸とも交易や交流が行われていたのではないかと思います。

まとめ

 今回は、城柵について紹介いたしました。古代東北に関する知識が深まったでしょうか?古代東北史を知る上で重要な建造物であり、今後も研究調査が進むことで、古代東北史の知られざる歴史が明かされていくのだと思います。

 東北地方の各地には、城柵の復元モデルや城柵の跡が多く残されています。東北に訪れた際はぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
mashiro さん
もともと歴史好きでしたが、高橋克彦さんの「火怨」を読んでから東北史にどハマり。大学では日本史を学び東北史を研究しました。 現在は自宅保育の傍ら、自宅で仕事してます。

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