戦国時代にあった戦場の奴隷狩り(乱取り)と人身売買

『大坂夏の陣図屏風』右隻部分の一部。避難しようとする群衆の姿が描かれている。(出典:wikipedia)
『大坂夏の陣図屏風』右隻部分の一部。避難しようとする群衆の姿が描かれている。(出典:wikipedia)

戦国時代の「人市」

 戦国時代には、「人市」があったという。「人市」とは、奴隷市場である。それは駿河国の富士の麓にあり、天文・永禄の頃であったと言われている。人市では妙齢の女子を売買し、遊女に仕立て上げたと伝わる。古老の談ではあるが、戦国時代の最中でもあり、「人市」はあったのかもしれない。

 戦国時代に女性が売買されたことは、天正7年(1579)9月の『信長公記』の記事に次のような記述がある。

去る頃、下京場之町で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺で日頃から売っていた。この度、この話を聞きつけ、村井貞勝が召し捕らえて尋問すると、これまで八十人もの女性を売ったと白状した。

 この女性は、門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていた。この話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入り、取り締まりの対象となった。

 その後、女性は罪を咎められ、厳しい処罰を受けた。織田政権下においても、人身売買は法度だった。金銭目的だったと考えられるが、女性の売買は日常的に行われており、奴隷商人は全国各地に散在していたといわれている。

 売買された女性は、家事労働に従事させられた(家内奴隷)。一方で、性奴隷に仕立て上げ、より高く売却した可能性も考えられる。特に、貨幣経済の浸透と経済発展は、人身売買をいっそう後押ししたのかもしれない。

 奴隷商人の実像はまだ神秘のベールに包まれているが、鎌倉時代以来の伝統を持ち、この時代にも暗躍していたと考えられる。

戦場での性暴力

 部隊を戦場に移そう。戦場では乱取りといい、多くの男女・子供が生け捕りにされた。乱取りは、戦場ではごく普通に行われていた。兵卒は躊躇なく人を殺し、どさくさに紛れて強盗をし、強姦なども当然のように行った。

 戦場での乱取りを詳しく観察した宣教師のルイス・フロイスは、兵卒たちが女性・少年・少女らに異常なばかりの残虐行為を行ったと述べている(『日本史』)。その残虐行為とは、率直に言えば、性暴力であったと考えられる。キリスト教の宣教師であるフロイスは、少し遠慮がちに言葉を選んだのであろう。

 次に、武田氏の乱取りの事例を見てみよう。天文17年(1548)、信濃における戦場で、多くの男女が武田軍の兵卒に生け捕りにされたという(『妙法寺記』)。男女は何のために、生け捕りにされたのだろうか。

 『甲陽軍鑑』には、兵卒は男女や子供のほか、馬や刀・脇差を戦場で強奪することによって、経済的に豊かになったと記している。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたことであろう。場合によっては、売却して金銭に換えることも可能であったと推測される。

 このような乱取りは各地に見られ、和泉や薩摩でも行われていた。決して、武田氏だけの特殊な事例ではなかったのである。

生け捕られた人々のその後

 生け捕られた男女の数は、ときに凄まじい人数に膨れ上がった。天正3年(1575)、織田信長は越前国の一向一揆を討伐したが、その際に殺された人間と生け捕りにされた人間の数は、3・4万人に及んだと伝えている(『信長公記』)。

 殺された数も多かったようであるが、戦場で生け捕りにされた人々は、兵卒たちの戦利品として扱われたと考えてよいだろう。捕らえられた人々には、悲惨な運命が待ち構えていたに違いない。

 ところが、乱取りは決して放置されたわけではない。「結城氏法度」は、結城軍に雇われた傭兵の乱取りに便乗し、結城氏の近臣の若者までもが女性を奪ってくるようになったため、乱取りの禁止を規定した。乱取りは結城氏にとって、見過ごすことができない事態だった。

 おそらく結城氏は、乱取りが恒常化するにつれて、耕作に従事する人々が連れ去られる事態を憂慮したのだろう。百姓がいなくなれば耕作地は荒れ、やがて年貢は納入されなくなる。そうなると、領国経済は成り立たなくなってしまうのだ。

大坂の陣での生け捕り

 乱取りは、慶長19年(1614)から翌年にわたる大坂の陣(徳川・豊臣の両家の戦争)でも確認することができる。

 大坂の陣で勝利した徳川軍の兵卒は、女・子供を次々と捕らえて凱旋した(『義演准后日記』)。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたといわれており、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女・子供が占めている。

 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げまどう戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵卒に捕まった女性たちの姿が注目される。兵卒は戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。

 では、大坂の陣で捕らえられた女・子供は、一体どうなったのであろうか。『三河物語』は、女・子供が人買い商人らの手によって、全国各地に売買されたことを示唆している。捕らえられた女・子供は、かなりの数になったのだろう。

 ここで売られた女・子供は、家内労働などに従事させられ、あるいは性の奴隷として扱われたと推測される。また、略奪結婚がたびたび行われた事実も知られている。東北、九州、四国などでは、戦場の兵卒たちが生け捕った女性を強引に妻にしたこともあったようである。

 戦争と言えば、有名な武将の活躍ぶりなどが注目されるが、それは戦場における一コマに過ぎない。いつの時代も大きな被害を受けたのは、普通の人々だった。特に、弱い女・子供は、最大の被害者だったといえよう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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