藤原道長の父「藤原兼家」 『大鏡』から藤原氏全盛の基盤を作ったビッグダディを知る
- 2023/12/19
紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』など、日本の国文学が大きく発展した頃、政治の実権を握っていたのが摂関家 “藤原氏” であることはみなさんご存知かと思います。
私も学生時代に平安時代の藤原氏による “摂関政治” について、
と学んだ記憶があります。そして、その藤原氏全盛の基盤を作ったのは藤原兼家(ふじわら の かねいえ、929~990)ではないかと私は考えています。
そこで今回は、藤原氏全盛に至るまでの経緯について書かれている『大鏡』より、この藤原兼家についてご紹介したいと思います。
私も学生時代に平安時代の藤原氏による “摂関政治” について、
- 「自分の娘を天皇と結婚させ、生まれた子供を天皇にして自分が摂政・関白となり実権を握った」
- 「藤原道長・頼通のころが全盛だった」
と学んだ記憶があります。そして、その藤原氏全盛の基盤を作ったのは藤原兼家(ふじわら の かねいえ、929~990)ではないかと私は考えています。
そこで今回は、藤原氏全盛に至るまでの経緯について書かれている『大鏡』より、この藤原兼家についてご紹介したいと思います。
【目次】
『大鏡』とは
『大鏡』は平安時代後期に書かれた紀伝体の歴史書です。いわゆる “四鏡(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)” の最初の作品であり、作者は不明。書かれている内容は主に藤原道長時代のもので、同時期・同内容の作品には『栄華物語』があります。
『栄華物語』は登場人物や出来事を優雅な描写によって編年体で書かれており、タイトルの如く歴史書ではなく、物語を読んでいる感覚になります。一方の『大鏡』は、登場人物の行動や出来事を分析するような表現となっていて、その時代の様子を把握しやすくなっています。
『大鏡』の概要を説明すると、
- 190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)と180歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)という2人の老人が藤原氏の栄華などについて語る
- その話を30歳くらいの侍が聞く
- 話の内容は、上記2人の老人の紹介や昔話について書かれた「序」、文徳天皇から後一条天皇までの14人の天皇について書かれた「本記」、文徳天皇の祖父である藤原冬嗣以降の藤原氏について書かれた「列伝」の3部構成
といったところです。藤原兼家は、この「列伝」(『大鏡』太政大臣兼家)にて登場します。
藤原兼家とは
“紫式部” と “清少納言” の2人は、優れた才能を持った平安時代の女性ベストセラー作家でしたが、紫式部は藤原彰子(あきこ / しょうし)の女房として、清少納言は藤原定子(さだこ / ていし)の女房としてライバルの立場にあったことは有名ですよね。彰子も定子も一条天皇の妻であり、彰子は藤原道長の娘、定子は道長の兄・道隆の娘です。また、一条天皇自身も道長の姉である詮子の息子ですから、この3名はみんな親戚関係にあります。
そして今回の主役である藤原兼家は、道長・道隆・詮子の父親です。彰子・定子・一条天皇は藤原兼家のお孫さんですね。
そんな兼家ですが、若いころは当時摂政であった長兄の伊尹(これただ)から期待され、重用されました。しかしこの過程で官位が逆転した次兄・兼通との確執が生じ、伊尹の後任の関白職に就いた兼通(かねみち)の時代には冷遇されます。
しかし兼通の死後、紆余曲折ありながらも天元元年(978)には右大臣に昇進。寛和2年(986)に孫の懐仁親王が天皇に即位(一条天皇)したことによって摂政となります。
摂政となった後は右大臣を辞め、太政大臣(藤原頼忠)・左大臣(源雅信)との上下関係(当時の位は、上から太政大臣→左大臣→右大臣の順)から外れることによって政治上の権力を強大にしていきます。やがて兼家の藤原家の勢力は絶大となり、息子の道長へと繋がるのです。
以上が兼家の簡単なプロフィールです。ではここからは、兼家についてもう少し掘り下げて紹介していきましょう。
ラフな格好がお好き?
兼家は参内するとき、朔平門まではみんなと同じく牛車で来ますが、そこから清涼殿までは “装束の入れ紐を外して” くつろいだ格好で入ったらしいです。また、7月の展覧相撲のときは、一条天皇や皇太子の居貞親王(後の三条天皇)の前でも肌着だけでいたようです。
本来は正装でなければならぬ天皇の御前で肌着だけ(さすがにパンツ一丁なら褌一丁ではないと思いますが…)とは、随分とラフな格好がお好きなようで。確かに正装は疲れます。気持ちは分かりますが、とても私には出来ません。
弓矢の夢をみて天下を握る
堀川に住む次兄の摂政・兼通が全盛だったころ、兼家は本官・兼官などの官職役を停止させられており、つらい時期でした。そのころ、ある人が「堀川院から放たれた多くの矢が兼家の家に全て落ちてくる」という夢を見ます。その人は兼家が普段から不快に感じていた相手(兼通)の家から矢が落ちてくる夢なので不吉だと思い、兼家に伝えます。兼家本人も話を聞いて非常に心配し、夢解(夢占い師)に相談したところ、
「いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の、さりながらまゐるべきが見えたるなり」
(訳:とてもすばらしい夢です。天下がこちらに移って、兼通に仕えている人がそっくりこちらへやってくる兆しがみえました)
と言われたそうです。実際にその後、兼通は病死し、兼家全盛の時代がやってくるのです。
兼家は ”神に選ばれし者” だったのでしょうか?
正室 時姫は ”天下の幸い人”
兼家は摂津守 藤原中正の娘・時姫(ときひめ)を正室に迎えます。この時姫は女子2人(超子、詮子)と男子3人(道隆、道兼、道長)を産みます。超子が天延4年(976)に三条天皇を、詮子が天元3年(980)に一条天皇を産むことによって、兼家は天皇家の外戚として強固な地位を得ることになります。時姫は藤原家の栄華を確固たるものとするきっかけを産んだ女性として “天下の幸い人” と呼ばれていたそうです。
そんな彼女がまだ若かったころ、二条大路で夕占(夕方、道端に立ち行人の言葉を聞き、吉凶を占う古代から伝わる民間習俗)をしていると、真っ白な髪の女性が立ち止まって、
「なにわざしたまふ人ぞ。もし夕占問ひたまふか。何事なりとも、思さんことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせたまふべきぞ」
(訳:何をしている人ですか。もしや夕占をしているのですか。それなら、この先あなたはお望みのことが全て叶い、この二条大路よりも広く長く栄えることになりますよ)
と言い去ったことがあったようです。この白髪女性は人ではなく、神か仏が明るい未来を示したのではないかと『大鏡』では記されています。
神に選ばれし者の妻もまた、神に選ばれし者だったのでしょう。羨ましいご夫婦です。
やりたい放題の晩年
兼家の晩年は、自分の家(東三条殿)を清涼殿風にリフォームして、部屋の中も内裏に似せて飾り付けをして暮らしていたそうです。天皇の御前でも肌着になれる兼家ならやりかねない行為ですが、この様子に世間では
「さやうの御身持ちにひさしうはたもたせたむはぬ」
(訳:身分をわきまえないふるまいのために、長く世を治めることができなかったのだ)
と批判されたようです。
まあ当然といえば当然ですか、ね。
兼家の最後、鬼にも動じず
永祚2年(990)、兼家は二条北、京極東にあった別邸 “東二条院” で亡くなります。この東二条院は周りから気味悪い所だと言われていましたが、兼家本人は「東山などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」
(訳:東山などがとても近くに見えるのが、山里のような感じがしておもしろい)
と気に入っていたらしく、周りの注意も聞かずによく行っていたようですね。結局、東二条院へ行くようになって直ぐに亡くなったといわれています。
ちなみに東二条院で兼家がお月見をしているとき、目には見えない鬼が現れ、格子を下げられるという嫌がらせを受けたことがあったようです。お付きの人たちは恐ろしがりますが、兼家は少しも驚かず枕元にあった太刀を引き抜いて、
「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。いと便なし。もとのやうにあげわたせ。さらずば、あしかりなむ。」
(訳:月を見るために上げた格子をおろすのは、何者のしわざか。とても不便だ。もとのとおりに上げわたせ。さもなくば、あなたにとって良くないことが起こるでしょう。)
と言うと元通りになった、と『大鏡』では書かれています。
それ以外にも東二条院では奇怪な出来事が結構あったようです。ゆえに、兼家が亡くなったあと、子供たちは誰もこの家を欲しがらず結局 “法興院” という寺になったと書かれています。
いわゆる “妖怪屋敷” や “事故物件” 的な存在だったのでしょうか。
※実際には兼家生前に自ら平癒祈願のために寺にしたので、物の怪のせいではありません
藤原氏全盛の基礎を固めた藤原兼家
藤原兼家は、若いころ一度挫折(兼通による冷遇)しながらも天皇の外戚となり摂政関白まで這い上がるあたり、相当の才能と運を持った人であることが分かります。一方で、今回紹介したように、ちょっと常人離れしている感覚というか神に選ばれし者というか・・・。普通でない人だったことがよ~く分かりましたね。
今も昔も成功者の共通点なのでしょうか。凡人の私には理解できませんが、みなさんはいかがでしたか?
注)
- ※本文中に登場する古文は全て『大鏡』の原文です。
- ※原文の現代語訳は筆者訳で、直訳すると難しい表現の所は意訳にしています。
【主な参考文献】
- 『大鏡 下』海野泰男 校注・訳(ほるぶ出版、1986年)
- 『道長と宮廷社会』大津透 著(講談社、2001年)
- 『摂関政治』古瀬奈津子 著(岩波書店、2011年)
- 『源氏物語の時代~一条天皇の后たちのものがたり~』山本淳子 著(朝日新聞社、2007年)
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